むかしの育児ikuji

 このコーナーでは、過去のさまざまな育児について検証し、科学化され、画一化されつつある

今日の育児を見直してみたいと思います。なにもなかった時代、子どもはどのように育てられ、

そこにはどんな知恵があったのでしょうか?

 


私の病歴事故編/病気編/  育児の言葉/共同体儀式として産育習俗


私の病歴(はじめにかえて)

 事故編

●病院にかかった最初の記憶は3歳ころだと思います。

家の前の舗装されていない国道沿いで三輪車に乗っていて、転んで右眉毛あたりに裂傷を負いました。

さいわい、すぐ近くに外科系医院があり、二階の白っぽい部屋へ運ばれ2−3針縫われたようです。

今では、三輪車で国道沿いを走るなんて無謀なことはできなくなりましたが、

当時は、たまに馬が材木をひいて歩いていたのです。馬糞が落ちていましたから確かです。

そう、この道を大八車に乗せられ、むしろをかけられ運ばれていく患者さんを

見たことがあります。猩紅熱で、避病舎へ送られるんだと聞かされました。

●4歳の頃、東京から母方祖父母が来るという特別な日、母は、来客用布団を二階にとりに行き、

階段をあがったところに積み上げていました。男の子の私は、当然母を助けるつもりで

あとを追い、積み上げられた布団の山を見て冒険心がわき、そこに山があったからとばかりに登ろうとし、

もろともに階下まで転落しました。古い家の14段はけっこうな高さ。

その後しばらくして吐きはじめ、寝てしまったようですが、

目覚めると隣の部屋で父母や、祖父母のひそひそ話が聞こえてきて、

そこに加われなかった自分の惨めさに泣き、おみやげはどうなったかきがきではなかった

のを憶えています。もちろん、病院へは連れて行かれることもなく、

レントゲンはおろかCTなどとっていません。なかったのですから。

いずれも、転倒転落事故ですが運動神経が鈍かったからそうなったのか、

事故のせいで鈍くなったのか定かではありません。

●小学校に入る前、夏の夕方、めずらしく父に連れられ海水浴に行きました。その頃の宇和島は、

そこいら中で泳げたのです。何か約束をしていると決まって急患で没になることの多かったその頃、

実行に移されワクワクしていた私は、足の裏を刺激する牡蠣の痛みももろともせず沖へ歩みだし、

あえなく深みにはまりました。パニックになり声も出せなかった気がします。が、浜で、茣蓙(懐かしい)かなにかを

敷いていた父が、あわてて飛んでくる姿を今でも鮮明に憶えています。父への敬意は

それ以来、亡くなった今でも深く持ち続けています。一瞬気づくのが遅れたら、

私はこの世にいなかったでしょう。

●よりによって、小学校入学式の帰り道、やはりまだ舗装されていなかった国道で、大きな穴を掘って

工事がおこなわれていました。好奇心旺盛で、その頃までは利発だった私は、道を横切って

それを見学に行きましたが、「危ないよ」という母の声に素直に戻ろうとしたとたん、

当時はまだ珍しかったスクーターにはねられました。さいわい膝あたりの擦過傷で済みましたが、

スクーターの男はちらっと私を見たまま逃げ去ったのです。宇和島はじまって以来のひき逃げだったかも

しれません。妙なことに正義感が強くなったのはこの時からです。

怪我にまつわることは以来大学を卒業するまで、ご無沙汰でした。

●医師になって数年後、たぶん昭和52年の梅雨時、埼玉の病院へ出勤途中、

大雨の中で、併走するトラックの水しぶきで一瞬眼前が泥色に染まり、急ブレーキをかけたところ、

後ろから来ていた10トントラックに追突されました。ワーゲンシロッコに乗っていた私は、

奇跡的にごく軽いむち打ち症で済み、車もハッチバックを取り替えた以外、何ともなかったのです。

ドイツ車への信仰はその時強く芽生えました。

●ワーゲンシロッコといえば、その前年、根室市立病院部長として赴任を前に、

寒冷地に強いだろうということ、給料がぐんと良くなることを見越して中古ながら

思い切ってを買いこんだものです。正月休み、根室から北へ向かい

知床を経て網走まで走り、翌日、阿寒、屈斜路湖を見て帰ってくるプランを立てました。

知床、網走間には峠があり、日も暮れ始め、吹雪はじめ、車高の低いシロッコは

凍結して岩のような深い轍をガリガリすりながら、

時速5キロくらいで踏破したのです。何しろ零下20度を切ろうかという気象条件、

凍死という言葉が脳裏を駆けめぐっていました。

翌朝、固まったフロントガラスに民宿のおばさんが沸かしてくれた熱湯をかけ、

エンジンが始動したときはさすがドイツ車!と感激しました。

●2年前の足首の骨折については、ちょっと一言「インフォームドコンセント」に詳記しましたので省きますが、

携帯電話を、以来肌身離さず持つようになったのです。

このHPも、その事故がなかったら生まれることはなかったでしょう。

病気編

●母子手帳もなかった時代に生まれ、生来親と話すのが苦手だったこともあり、

父母が亡くなってはじめて、私はどこで生まれたのか知らないのに気づきました。

自宅(今の)分娩だったのかもしれませんが、

お向かいに産婦人科があったので、そこで生まれた可能性もあります。

予防接種歴はもちろんわかりませんが、

物心ついて今日まで、主要伝染性疾患に罹患した覚えはありませんので、

かなり小さい頃かかったのでしょう。

11歳当時の私の胸部写真

明らかに右下肺野は

肺炎を起こしていたようです。

こんな写真が何枚も

保存してあります。

かぜ、気管支炎にはしょっちゅう

かかっていたように思います。

が、白米でのお粥、卵など普段

あまり食べることのないごちそうが

でましたから、白衣を着た父に、

今では発売中止(いや、中止になり

かけただけだったかな)になった

白く混濁した筋注用クロマイを

何本もお尻に打たれようが、

ラムネの瓶の色をした薬瓶に

入った苦い薬を飲まされようが、

けっこういい気分でした。

昔使っていた薬

(桑折醫院所蔵)

カルテには「高貴薬」なんてはんこが赤々と押されていたりしました。

小学校3年生の頃、たしか現天皇陛下ご成婚記念を機に、ついに我が家にもお目見えした

テレビを見ながら寝てられるようになってからは、ますます病気が好きになったような気がします。

●幼稚園くらいのころ、庭に今でもある大きな木が紅葉していた頃

その葉っぱを口に含み、ブワーっと吐き出し、ゴジラになった気分で遊んだあと、

ほっぺたが腫れ、歯医者さんへ連れて行かれました。

なぜ歯医者だったか今でもわかりません、おたふくかぜではなかったのかと思うのですが、

葉っぱを口に入れたことを親にはいいませんでしたから、

病名は確定しなかったように思います。今度紅葉したその葉を

口にしてみれば再現されるかどうか確かめられるでしょうが、

この年齢になるとその勇気はありません。

●その頃、いわゆる成長痛に悩まされて、母に手を引かれて買い物などに行くと

必ず膝を痛がり、途中でうずくまっていたのを憶えています。

よほど頻繁だったのでしょう、とうとう東京まで行って精密検査をすることになったようです。

整形外科だったと思いますが(その頃整形外科があったかどうか)

うす暗い検査室でいろいろ何かされ、挙げ句の果てに学生が7−8名集まってきて

ノートを取ったりしていました。結局、手術だなんてことにはならず、

無罪放免してくれたその教授は見識があったと思います。

どうせ、甘えていたか、ただ単に疲れていたか子どもなりに巧妙に

だだをこねていただけだったように思うからです。

その病院は、実はかの東大付属病院だったのです。

しかし、見せ物になったような、実験台にされたような屈辱的気分を味わった以上、

東大にだけは行かないぞと固く心に誓ったのでした。

●中学生の頃から、起立性調節障害、本態性低血圧に悩まされ、

今日に至っています。朝起きづらく、夜は元気、急に立ち上がったときの動悸

眼前暗黒感には慣れてしまっています。車酔いはなくなりましたが

飛行機は大嫌いです。さいわい、頭痛、腹痛などの自律神経症状がないのは助かります。

そのせいで、何度か不登校と間違えられ悔しい想いをしました。(ま、半分はずるでした)

が、夜のお仕事の多い小児科になって、この体質は有利に働いています。

夜間当直などは、まじめにこなしましたし、開業後も深夜の患者さんは苦になりません。

最近は、患者さんが気を遣って、あまりр烽りませんが、、、、。

HPの相談は1時、2時が多く、2時、3時にお返事を書くとびっくりされるようです。

ここに、昭和43年8月13日付の一通の手紙があります。

当時の学友からの暑中見舞いで、君に借りたギターのカルカッシ教本は高等すぎる、

日本史の感想文はもう書いたか、何回泳ぎにいったか、来年は受験だが

今年の夏頑張っておけば、楽だろうなどなどと書き綴ったあと、

「大洲、宇和島方面で、この頃しきりに日本脳炎患者がでては死亡しているけれど

君は、大丈夫かな。栄養をとって、体を弱らせないことが第一だ、無理をするな。」

と書かれています。病児保育室を作るため古めかしい勉強机の引き出しを整理していて出てきたもの。

日本脳炎!死亡!そんな時代だったんだなと、、、、、。

●大きな、内科的疾患は、開業した翌年、はじめての夏にやりました。

夏かぜが多く、夜間、深夜と高熱の患者さんを全て診ていて、

院長室のソファーで白衣を着たまま寝るという日が続いていました。

当然のごとく自分が高熱を出し、坐薬で抑えながら休診もせず頑張っていたら、

頭痛が襲ってきました。教科書どおり、無菌性髄膜炎を併発したのです。

自分で歩いて市立病院へ行き、腰椎穿刺をしてもらって診断を確かめ、

予後良好と確認して、昼休みに点滴をしながら診療を続けました。

が、解熱したものの、一向に食欲がでず、おかしいと思って採血をしたところ肝機能が

めちゃめちゃでした。解熱剤を使いすぎたための薬剤性肝障害だったのです。

さいわい、これも点滴を続け事なきを得ましたが、

解熱剤を使って無理をすることがいかに危険なことであるか

身をもって体験し、以来患者さんにも注意を促しています。

当院の、解熱剤坐薬使用量は、全国的にも最低レベルだと思います。

●中年にいたり、高コレステロール血症は、食生活から考え当然のことです。

一時、かなりの肥満にもなり、成人病予備軍どころか、典型例に陥りそうになり、

膝も痛み始めダイエットを試み、3カ月で10Kg減量に成功しました。

こんにゃくや、わかめサラダ、そうめん、減酒にくわえ、

大枚はたいてアエロバイクを買い込み一気にコレステロール値は100近く減り、

とてもいい気分を味わいました。

そろそろあのダイエット作戦をまたしてもやらなくてはならないかなっと思っていますが、

10年前の気合いは今はありません。肥満防止とかいいつつ、ニコチンにも依存中です。

いい薬もできたし、、、、。

かくして中年から老年にかけ、必然的に服薬量つまり医療費が増えていくのでしょう。

●さて、ニコチン中毒について書かざるを得ません。

日本医師会も大々的なキャンペーンを始めましたし、

愛媛県小児科医会会長はすさまじい禁煙活動かでいらっしゃいます。

そもそも、私がたばこを口にしたのは、卒業試験、医師国家試験中、つまり24歳の春からです。

当時の国家試験は、普通に勉強していれば90%以上合格というものでしたし、

その春は、今さら分厚い医学書を読み直しても、、、という感じで、何しろ暇だったのです。

情報交換と称し、喫茶店や、下宿で友人が集まり、当然のごとくたばこに手を出したのです。

以来、1日1箱程度ですが欠かしたのはかぜでのどをやられる、年に数日と、

骨折で手術をした前後1週間くらいです。この時、絶好の禁煙機会だったのですが、

友というのはありがたいもので、お見舞いに1箱持ってきてくれたのです。

千代田区では、歩いて吸うことすら罰金がかかるというややファナティックな

事態になっていますが、ことここにいたって、禁煙をする気持ちはありません。

この間に、副流煙だの、嫌煙権だの、妙な論理がまかり通ってきました。

柳の下でたばこをくゆらせ待ち続け、バーの紫煙の中で恋を語った

人が、いまになって私を緩慢な自殺の道連れにしないでなんて、、、、

っておもっているお父さん方も多いでしょう。ああイヤだ。

がん、がんといわれますが、じゃあなんで車の排気ガスにはかくも甘いの?

工場から出るあの煙は?原子炉のあのずさんな管理は?なんでたばこだけ?

世間に背を向けるのも、一種の病気ではありますが、

声高に叫んでいるのは、人間、生きているだけで他人様に迷惑をかけ続けていることに

気づかない方々ではないでしょうか。やっぱ、違うかな〜。


日本人がいかに愛情をこめて子どもを育ててきたかという歴史が語られるとき、

「子宝」という言葉の由来となったといわれる、

『万葉集』にある山上憶良の、

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも

という歌がまず思い出されます。

斎藤茂吉は、簡潔で、飽くまで実事を歌っているとして、憶良の歌のなかでも、

第一等である(『万葉秀歌』上巻)と高く評価しています。

ここでは、むかしの育児を知るための手がかりを先人が遺した文章に探っていきます。

「桑・柏日記」(そうはくにっき)「江戸時代の父親の子育て」必読

このごろ私は、自分の躰に父母の血が流れているだけではなく、父母の……ことに、 母の 幼・少の環境までが、

微妙に今日の私へはたらきかけていたことを、つくづくと、 お もわず にはいられない。

こうなると、 (子供のころの・・・・・ことに、生まれてから五、六歳までの環境が、人の一生 もたらす影響 は、

むしろ、そらおそろしく・・・・・)なってくる。

池波正太郎:子どものころより:毎日新聞「日曜くらぶ」1979

また、一つの家には、平常の場合、かならず老人がい、夫婦がい、子供がいた。

老人 のい ない家は〔家〕ともおもわれなかった。老人がいないと、衣食住の基本が若い女たちへつたへられない。

おぼえられないからであり、おぼえられなくては日々の暮しに女自身が困るのであった。

これがすべて、金しだいで何とでもなり、電気がすべてを仕てのけてくれる現代では、なるほど、老人が要らなくなるわけである。

池波正太郎:家より:「現代」11月号1974

子を育てるに当たって決して懲罰を加えず、言葉を以て戒め、六、七歳の小児に対しても

七十歳の人に対するように、真面日に話して叱責する。

(註:この時代日本を訪れた多くの外国人は一様に日本人の子どもに対する

穏和さを強調しています。鞭によって子を懲戒する権利は天主から親に授けられたものとする

人たちの目には、驚異に映っていたようです。

宣教師フロイス:日本西教史:1565年2月20日付

そのとき,ぼくは,やっぱり,患者として考えましてね今は,寿命が長くなりましたからね

お医者さんが自分の肉親の死に会っていないんですね

私なんかもう20歳ぐらいのときに両親がいなかったり兄が死んだり姉が死んだりしていまずけれども

今、356歳の人というのは親も生きているし兄弟もみんなピンピンしている.だから

お医者さんが身近な人の死を知らないので遺族の気持ちが分からないのではないか

(育児と直接関係有りませんが、最近の若い医師の診療姿勢について)

吉村昭:日本医師会雑誌107−1対談より

子供は涙で命令する。

             そして聞いてもらえないと故意に自分を傷つけるものである

スタンダール(1783〜1742)

病気や災害で子どもを失うことが多かった時代、集団的にその生命を保障し、

成長させる手段を考え、このひ弱な人間の子を、多くの儀式によって成長 を確認し励ましながら、

一人の落ちこぼれもなく、一人前に育てあげようとしてきました。

これが子育ての習俗、理論、方法として生活のなかで継承、蓄積されてきたのです。(参考資料:平凡社:子育ての書)

帯祝い 妊娠五ヵ月目(三ヵ月、七ヵ月のところもある)に、がある。帯は岩田帯 いわれ、

当日 は、仲人や親類縁者を招き、嫁の実家から送られた米や小豆を振舞う。

産飯 共食 がつき、産婆をはじめ近隣の多くの人に食事を振舞う。
三日祝い 三日目にはで子に晴れ着を着せる。
名づけ祝い 七日目、名をつけてもらって子どもはその生存を社会に承認してもらう。
宮参り 三十日前後におこなわれ、子どもは新しい氏子として氏神様に引きあわせられる。
食い初め 百日目前後には、おとなと同じ ものを食べさせる儀式、子どもはまだ米は食べられないが、

「百日の一粒食い」として、膳をととのえて米粒一粒でも食べさぜる。歯を固くする呪いとして、

小石をそえることもある。

誕告祝い 誕生餅をつ き、客を招いて祝う。誕生餅を背負わぜ転がす風習もあり、

これは、あまり早く 歩きだすのはよくないとの考えがあった。

紐 落とし

(帯祝い)

3歳、それまで付紐で着ていたのを、この年齢でやめて帯をつける。「三つ子の魂百まで」といわれ、

三歳は成長過程における一つの重要な段階であると考えられてきた。

七歳までは

神のうち 

七歳まではまだ人 間社会に入りきっていないとされ、葬式も簡単にすます風習があったが、

この年齢で子どもの祝いは終わり、以後、一人前のおとなになるための準備にはいる。