医者の休日                        

おおっぴらに医者が休めるのは、学会、研究会、勉強会にかこつけて、、、、半分は旅行、ゴルフ、買い物、夜を楽しみます。

2008 APR 26~27 第111回日本小児科学会学術集会

 このところ、学会から足が遠のいています。理由はいろいろですが、何しろ規模が大きくなって、せっかくいってもほんの一部分しか聞けない。そもそも、どこで何をやっているか、その部屋はどこにあるかなど、余計な労力が大変なのです。右の写真は、今回の会場、「東京国際フォーラム」JR東京駅のお隣、銀座や有楽町にも近く、地下道が縦横無尽に走っていますから、土地勘があればちょっとした買い物なども便利なのですが、なければ迷路には待ったも同然。会場そのものも、わが田舎町に匹敵するくらいのスペースがありそうな巨大空間。日頃の運動不足は解消されます。

 今回のメインは第7回はしかゼロ対策小児科医協議会への出席。この会場のG602という部屋で開催されました。毎回顔を合わせたり、MLで発言されている先生のお顔を拝見したりそれなりに楽しいのですが。今回の特別講演は厚生労働省健康局結核感染症課課長補佐山田隆雄さん。日頃の感染症対策では、厚生労働省の弱腰、朝令暮改にほとほと手を焼いている我々ですが、この方、全てそれはわかっている、法は行間を読んで現場にあわせてやってくれと、実に柔軟な発言をなさいました。たとえば、MR3期、4期において保護者同伴となっていますが「それは原則で、被接種者の健康状態を知る親族等の、、、この等がみそなんです。等とは誰でもいいと言うことでして、、、、」とこんな調子。接種間隔などでもきわめて役人的解釈が相次いでいたわけですがこの方「全ては接種機会を増やすと言うことが大原則でして、まあ、1日やそこらずれても医学的にどうってことないわけでして、、、現場が細かいことを聞いてくると、役所としては役所的対応をせざるをえないわけでして、、、、、」はあ〜〜。

 まあ、同じ案件でも北町奉行所と南町奉行所では正反対の沙汰が下るといったことは昔からあったわけですから、、、、、、、

 有楽町ガード下の焼鳥屋で盟友と議論を交わしたのが一番の収穫かな、、

 

 

2008 JAN13 サンライズ瀬戸

二年ほど前にサンライズ瀬戸のことを書きました。

ホームにいて、目の前からス〜ッと発車してしまったこと、このページをよく読んでくださる方が多くけっこう反響がありました。そのリベンジとばかり、挑戦し見事に乗車しましたが、やはり前回と同じようにほとんど気づかないくらい静かに発車しました。ホームに降りて挨拶なんかしていたら出ちゃったてこと、結構あるんじゃないでしょうか?

個室は写真のような感じ、縦2メートル、横70センチくらいでしょうか、大柄の私は、まさにきっちりという感じ。あるものはエアコン、FM、コンセント(ひげ剃り専用?)薄手の寝間着、非常ベル、そしてなぜかコップ。ま、いたってシンプル。出るときはドアについている暗証番号式ロックをかけます。

ちびちびやりながら持参したウォークマンを聴き、読書三昧、7時には東京に着くはずでしたがなんだか事故があったらしく二時間遅れ。2千なにがしかの払い戻しを受けました。

2007 NOV21 大上律子先生講演会(宇和島)

かって校医をしていたときご一緒した養護教諭の先生に誘われ標記勉強会に参加してきました。

阪神大震災や、えひめ丸事件後の被災者支援などに活躍された先生ですが、子どもの発達に強い興味をお持ちだそうで、

演題名は「子どもの発達と親支援」でした。

最近の子どもの特徴としてフラストレーショントレランスが低い、セルフエスティームが低い、多くのスとレス状態の中にいながら対処能力が

低い、の三点を上げられその解説と対処法を語られました。要は我慢、辛抱が足りないと言うことでしょう。つまり切れやすいと言うことです。

30枚近いスライドと早口大阪弁でわかりやすい例を豊富に挙げてびっしりお話しされました。

その後の懇親会で「でもね、これだけのことを理解して親になる若者はいませんし」「現実問題こんなことできる親はいませんよ」

「こんな立派な親ばかりだとして、どんな子どもになれば理想なんでしょう?」といった素人っぽい疑問をぶつけさせていただきました。

わかっていても、ついつい命令はするし、時に過干渉、時に過保護になるのが親じゃないでしょうか?一貫した態度がとれる自信はないし、

時には子どもの要求にも負けてしまいます。ま、でも楽しく有益なひとときではありました。

2006 0CT1 愛媛県小児科医会第47回教育集会・総会(松山)

10月1日、日本小児科医会愛媛支部では、年に二回の教育集会を開催しました。この担当は東予、中予、南予が交代で掛け持ち

します。で、今回は、南予、私が企画しました。演題は

・周産期センターの改革と現状〜県立中央病院からの報告  
       座長 県立中央病院 梶原眞人先生
・あたたかい心をはぐくむ育児への提言 聖マリア病院 橋本武夫先生
       座長 松山日赤小児科部長 小谷信行先生

橋本武夫先生は、ご承知の通り、この分野では全国的に有名な熱血小児科医です。二年前、大分の外来小児科学会

初めて御講演を聴く機会があり、感銘を受け自分が担当するときは是非お呼びしようと思っていたのです。ということで、

前夜から食事をしながらさまざまなお話を伺うことができ、あらためて惚れ直した次第、来春には、宇和島で講演していただく約束まで

取り付けました。

主な役職をあげてみても、 日本小児科学会代議員、日本未熟児新生児学会監事、日本周産期・新生児医学会功労会員、

日本母乳哺育学会理事、日本医療保育学会監事など多彩、御著書として 「赤ちゃん健康110番」、「小さな赤ちゃん」監訳、

UNICEF/WHO 母乳育児支援ガイド」監訳、「Loving HUG」共著、「卆乳」など、あくまで現場主義の先生です。

2006 SEP 1~2 第16回日本外来小児科学会年次集会(横浜)

 昨年に続いてこの学会に参加しました。「就学時健診を利用した予防接種率向上を目指して」というWSでサブリーダーとして発表もしてきました。中央からの通達、通知と現場の対応。特に行政との関わり方など変わった視点からの発表です。いろいろな制約もあって、前日夜横浜入り、次の日午前中にWS、そのままとんぼ帰り。したがって、ほとんどなにも聞くことはできませんでした。学会というのは発表しに行くものではないとあらためて悟りましたが発表する方がいないと学会は成り立たないし。

ということで、左は学会が開かれたパシフィコ横浜、右はホテルからのみなとみらいの一角。

2006 MAY 30~31東京葛飾 五月の終わり 

 5月30日の19時45分という格好の時間に、東京葛飾で重要な講演会が開催されました。 格好、というのはつまり私にとって次の日は休診日である水曜日、さらに水曜日には、新宿で 日本アレルギー学会春季大会も開かれています。 葛飾での講演会を案内してくださったのは、主催者でもある畏友 M先生、 昨年秋には多彩なメンバーを引き連れてわざわざ宇和島闘牛観戦ツアーを やりのけた行動派です。

 ご存じの方も多いと思いますが、4月後半から、茨城県で麻疹が発生し、 5月には千葉県へとかなり拡大していたのです。 数年前からの「お誕生日になったらはしかワクチンを」キャンペーンとともに徐々に確実に麻疹発生は減少していただけに、 関係者は固唾をのんで見守っていたわけです。 私は、じつは学生時代から医者になって、ずっと東京中心に生活をしていましたが、 葛飾区へは足を踏み入れたことがなかったこと、 この連休、まさにはしか流行中の茨城県に「遊びに」行っていたことなど、 何か因縁を感じて、どうしても最前線でのこの講演会へ出席したかったわけです。 今日の世界で、我が身に降りかからないと言えることは何もありませんし、 それも、明日であるかもしれないからです。 

 講演会は 「茨城というと遠い国の話と言う感じがしますが、 葛飾区から取手までは電車で30分足らず、葛飾に飛び火すれば、 東京の中心、大手町まで地下鉄の直通で20分一寸」という危機意識の中で(宇和島からだって、5時間もあれば)、 「今、麻疹を考え直す−茨城と千葉の麻疹の大流行のさなかで−」と題され、現地で今回の流行対策に当たっておられる国立感染研の先生方、 並びに実際患者さんを診ておられる先生方のお話があり、 講演会というより、 当日入ってきた情報なども交え現地対策会議といえる内容でした。 成功した対策、失敗した例など、今後の各地で起きうる同じような事態に対し 大きな示唆を与えてくれました。 最も重要なことは、すべての人たちが「麻疹の脅威に」について 正しい意識を共有することではないでしょうか。 折しも、この4月からやっと麻疹・風疹混合ワクチン二回接種ができるようになったばかり、 ただ、その改正に当たり、信じられない年齢制限が加わったりして、現場から厳しい非難がでて、 6月には再改正に応じた矢先だったわけです。 ある意味、厚生労働省がもっとも危機意識が欠けているのかもしれません。

翌日は早朝から巨大なホテル内で行われた  日本アレルギー学会春季大会の 食物アレルギーセッションを聞いてきましたが、いやいや、会場には無数のパソコンが並び どの部屋で何が行われるか自由にチェックできるし、 デジタルポスターとやらが設置され、 ついにプロジェクターもいらなくなったハイテク学会を堪能しました。                 

2006 APR 8~9 サンライズ瀬戸!

鉄道ファンには結構人気の寝台特急サンライズ瀬戸号です。ご承知のとおり、なるべく飛行機には乗りたくないもので、そして、このところ臨時休診が多いので、行きはこの列車で、帰りは新幹線プラス夜行バスを使い日曜日をフルに使おうと一計を案じました。個室を予約しちびちびやりながらゆっくり読書をし、目覚めたら東京駅、昨年亡くなった恩師にお線香をあげたいし、会いたい友人とも連絡は取れたし、とても良い旅になる予定でした。坂出駅でこの列車の到着を待ち、この顔を撮影してさて10号車までプラットフォームを歩こうと(寝台列車ですからお客さんにも迷惑がかからないようにと)し始めたら、音もなく走り出したではありませんか!!え!なんで?うそ!!停車位置を間違えた?方向転換?一瞬いろいろ考えている間にどんどんスピードは上がり、ヘッドライトがテールランプ、あわてて階段を駆け下り駅員さんに、、、なんかよくあることみたいに、岡山行きに乗って、岡山で「富士」に振り替えてください、とあっさり言われました。写真の時刻をみると、たしかにこの時刻発車していておかしくない。

 ま、泣くに泣けない、笑っちゃう旅のスタートでしたが、したいことはできたし、帰りのバスは予想以上に快適だったし、家の前に6時30分につき朝風呂にも入って月曜の診療をいつもより早くさわやかにはじめられたし、総じて良い週末を過ごせました。

2006 MAR 5 ニコラウス・リンゲ チェロリサイタル 愛媛県立宇和歴史博物館多目的ホール

33歳、ドイツの若手チェリスト、まだそれほど名が売れているわけではないけれど、ブラームスの「歌の調べのように」サンサーンス「白鳥」「シューベルト「アベマリア」「アルペジョーネソナタ」そしてメンデルスゾーン チェロソナタ2番というチェロ好きには堪えられないプログラムとあれば、何とか時間を作って駆けつけたわけです。田舎では、めったにチェロリサイタルなんて聴けません。残念ながら聴衆は30名弱、終演後楽屋でしばらく話をしましたが「数」は問題ない、最高の聴衆は子どもだ、素直に聴いてくれるから、、と。演奏はとても真摯な心温まるものでした。それにしても会場は小さな町にはとてつもなく立派な、しゃれた建物です。ホールも写真のとおり、落ち着いたいい感じです。今、愛媛県は超つき緊縮財政。この施設も民間に経営委託の話が出ていますが、歴史的遺産の多い宇和町を訪れる方のためのプチホテルなどを併設し小さな音楽祭でもやれば、、、などと思いをめぐらせたのですが。
サインもらってきました。

 

2005 OCT 23 宇和島の闘牛

 翌日は一行の本来の目的?である闘牛観戦に出かけました。私が子どもの頃は、山間の原っぱに柵があるだけで昔の姿、つまり農家の娯楽の一つという雰囲気だったのですが、今ではドーム型の市営闘牛場ができ、スタンドから観戦、お弁当やおみやげも売っています。ただ、額から血を流して戦う牛がみていてかわいそうという印象を持つ方も多く、女性客も少なかったと思っていましたが、どうも昨今はK1が趣味という若い女性も多いだけにこの日も決行女性客が目立ち、中には立ち上がって黄色い応援を送る姿も見られました。下はチャンピオンの土俵入り、右下はその牛の戦い終わった直後、流れる涎!がみえますでしょうか?観客も土俵内にはいることができ、子どもも乗せてくれます。勝った牛はとても満足そうで落ち着いていますが、負けた方は悔しいのか、恥ずかしいのかなかなか静かにならないのが印象的でした。

2005 0CT 22 ロシアの古典・詩と音楽

 小児科のMLで知り合った熱血小児科医M先生が無謀と思われた、やはりネット上で知り合ったロシア文学者小林銀河氏を中心としたコンサート計画は、奇跡的に信じられない人と人のつながりを紡ぎだし、とうとうこの日宇和島で実行に移されました。当日、今年一番の大陸からの北風が吹き込み、雰囲気はまさにロシアの古典にふさわしいものになりました。チャイコフスキーに「四季」を朗読しながら演奏するという形式はもちろん初めてでしたし、おそらく世界でも珍しいことだと思います。そしてロシアにちなんだ曲を地元の音楽家!が、演奏し花を添えました。私はといえば、道楽の域を出ないチェロで、「四季」のなかの「舟歌」ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、最後にカザルスの「鳥の歌」を演奏し何とか盛況に終えることができました。ま、いろいろ反省する点も多々ありましたが、M先生の行動力によって、多くの仲間が増えたことは事実、学ぶべき姿勢だと思いました。

右はその日のポスターです。

2005 SEP 18 第252回広島交響楽団定期演奏会(広島)

 世の中は三連休となるその中日、土曜日はきっちり仕事をして標記演奏会へ出向きました。エストニア出身のアヌ、タリという女性指揮者が、エストニアの作曲家の作品をフルということ自体大変魅力的な企画ですがそれよりなによりわが長谷川陽子さんがドボルザークのチェロ協奏曲を弾くわけですから、3時間くらいかけてもなんの苦もないのです。

 その陽子さんの演奏は、スケールは一段と大きくなり母となったせいか強靱で豊饒、ダイナミックな素晴らしいものでした。終演後、かまぼこをおみやげに楽屋を訪ねしばし談笑。初めての出会いが91年2月の宇和島公演でしたがホテルから会場までチェロを運んだり、風邪気味の彼女に眠くならないかぜ薬を処方したり、懐かしい思い出です。その後、大阪、松山などでお会いしていますが、どんどん成長する彼女はずっと追っかけます。

数日後、おみやげと遠路はるばる聴きに来てくださってという葉書が来ました。お子さんは来年一年生だとか。彼女の字は、演奏そのもの、躍動しています。

2005 SEP 第23回日本小児心身医学会(大分)

左の写真はなんでしょう。四国八幡浜と九州臼杵港を結ぶ新しいフェリーの内部です。

最近なぜか大分での学会が多く(大分の先生が張り切っているからに他なりません)フェリーを利用するのですが、昔は薄汚い、荷物を運ぶ目的の船という感じでしたがちょっとしたホテルなみになってきて快適です。今回も4時起き、5時のフェリーですから、一眠りできるというのが最大のメリット。

 今回の学会は始めての参加。心身医学に関することはは、年を追うごとに外来でもネット相談でも増加していてあまりいいかげんな知識では対応できなくなってきたからです。

もう一つの目的は、以前トロイメライを尋ねてくださった、明治大学文学部心理社会学科教授三沢直子先生の「描画テストに現れた心の発達の停滞」という特別講演が組まれていたからです。時間の関係で直接お話はできませんでしたがじっくり最近のお仕事振りを拝聴しました。子どもが描く一枚の絵から、年代とともに心がすさんでいく様子には愕然とさせられました。ITに囲まれ絵を描く機会が少なく、そもそも描くべき自然が荒廃しているからだけならいいのですが。左は帰りのフェリーから八幡浜入港間際の風景です。このあたりはまだまだ豊かな自然が残っています。

2005 AUG20~21 第15回日本外来小児科学会年次集会(大阪)

 考えてみればこの学会は例年私の誕生日の数日前に開催されます。暑い盛り、台風とも遭遇しやすい、歳をとると出かけるのもおっくうになる季節ですが、絶不調の身体にむち打って出かけました。右は会場となった大阪国際会議場、堂島大橋からの偉容です。となりにリーガロイヤルホテルがあり便利でしたがここまで巨大な建物で開催しなくても、、、、会費、参加費が無駄に使われているという印象を持ってしまいました。大きな箱を作る方がいろいろいいのでしょうが、用途に応じたさまざまな会場があってもいいのではないかと思うのですが。広島経由、新幹線ではいった私にとっては、アクセスもよく文句はこのくらいにしましょう。
 土曜の午後を臨時休診にして出かけ、娘と決めた待ち合わせの時間に到着しました。本当に初めてだと思いますが、さしで大阪寿司を食べながらおしゃべりをしました。

 そろそろという時間に、やはり約束をしていた東京の二人の小児科医が到着、二次会へ繰り出しました。まぁ、学会の半分の目的は、こうした仲間とのひさしぶりの時間を持つということ、そしてあらたなお友だちもできていきます。今回は、秋に予定している秘密の催し物の準備会をかねていて、とても楽しいものになりました。中身はここでは伏せておきますけど。

 日曜日の朝開催されたWSは、過去に参加したことのない分野をあえて選んで約3時間聴講してきました。中身はここでは伏せておきますが、そのうち当院でも取り組むかもしれません。右の写真は午後からの記念講演会、松山市徳丸先生のあいかわらず前向きな姿勢に感銘を受けました。先生が第一回大会を松山市で開催されてもう15年たったというわけです。

 学会といえば、いつもは感銘を受け、なにがしかのエネルギーを得て帰ってくるのですが、今回は体調のせいかすっかり疲れてしまいました。

2005 JUL 17~18 第15回全国病児保育研究大会(岡山)

梅雨明け宣言が出されたその早朝、標記研究大会へ向けJRに飛び乗りました。AM5:38発、これでないと10時に岡山には着きません。かといって、前日から出かけるとなると、連休前の土曜の午後診を臨時休診しなくてはならない、あげく何処かで一泊、こういうとき、宇和島に住んでいる悲しさを実感します。

さて、お目当ては10:20からの市民講座「地域で子どもが健康で幸福に育つための環境づくり」、何しろ講師は佐々木正美先生です。長く児童精神科医として臨床実践をなさり、「子どもへのまなざし」など多くの著書でも有名な方です。もうすぐ70歳になられるとか。

まず、御著書と同じように穏やかな語り口で始まりました。短い時間ですが、小さな役割を果たさせていただきますと。冒頭は親の変化から、日本の親が、自由と勝手をはき違えてしまった状況を紹介されました。「本格的に受験勉強をさせたいからしばらく学校を休ませたい、卒業できるよう取りはからえ」「重要な模試があるから学校の行事日程を変えろ」こんな調子なのだそうです。誰かのために役立ってこその自分と言うことを忘れてしまっていると辛辣なしかしユーモアに満ちたエピソードが語り継がれていきました。

ままごと遊びができなくなった子どもたち、母親役はもってのほか、父親役になった子は何をしていいかわからず動かない、一番人気はペット役だとか。授業中の落ちこぼれは何とかなるけど、遊び時間の落ちこぼれは、、、偏差値の高い学校が一番自殺率が高いこと、非行少年に共通する発言は、自分のプライドより親のプライドで判断されたという意識、乳児期から思春期まで、広汎な問題点をかみしめるように語っていかれました。そして、予定の十二時になると、もう少しお話ししておきたいことがあるのですが10分ほどよろしいでしょうかと座長に了解を取られるマナーは、まさにご自分が語られた今の大人たちが失った礼儀の実践そのものでした。何しろ絶妙のテンポで〜たとえは悪いかもしれませんが先代円生?〜たんたんとお話しされますから、内容が染みわたります。早起きした甲斐があった。

昼食を挟んでのシンポジウムにも出席されましたが、何かとしゃしゃり出て、立て板のごとく喋るJ党衆議院議員、M党女性議員、岡山県副知事などのなかで、ご自分の立場、視座は一切揺るぐことなく、圧倒的存在感を示されたのでした。

二日目は、早起きをして、三大庭園、後楽園を散策、会頭講演、そしてなかなかそつのない厚生労働省母子保健課長の行政説明〜その前半は母子保健の歴史を振り返る時間に当てられましたが、たしかに私たちが今しようとしていることは、どういう背景があってのことかを再認識しておくことは重要な作業だと感じました〜を聞いて帰路につきました。

JR福知山線事故以来、遠出は初めてでしたがたしかにダイヤはずいぶんゆとりがあって、おみやげを買うにも、乗り換えにもあわてることもなく、こんなペースがやはり普通なんだと実感した旅でした。

2004 OCT 27 大分研修旅行

 水曜日は週のなかばの嬉しい休診日、前々回に書いた大分の学会で知り合ったT先生を訪ねる旅に出ました。

 彼は僕より10歳も年下ですが、開業してまだ4年、いろいろエネルギッシュに活躍されています。なかでも、乳幼児の耳鼻科的諸問題にしっかり取り組んでおられ、先の学会でも、リーダーとしてこのテーマのセッションを担当されました。で、是非実地指導を受けたいと申し出たところ、快く受け入れてくれて、この水曜日に出かけることになったわけです。

 右は宇和島から北へ約40分、西日本有数のトロール漁業の基地八幡浜港、6時20分のフェリーに乗って出かけました。魚市場は電気が煌々とともり、すでにせりが始まっているようです。

 波はやや荒かったものの、予定どおり別府港に着き、大分自動車道をすっ飛ばしてT先生のクリニックへ、開業して4年目というと元気はつらつ、大分の新興地にあって、十分な駐車場も確保され建物も新しくすでに患者さんの車で満たされていました。あちこち錆が浮き出、壁紙がはがれ、くたびれてきた我がクリニックも20年前はレストランと間違えて来た方がいたくらいでしたが、、、、、

 挨拶もそこそこに、白衣に着替えて彼の診療ぶりを見学させてもらいました。毎回診療目的をメモ用紙に書いてきてもらう方式、電子カルテではないものの処方箋はその場でパソコンで打ち出し、患者さんとの応対も用意されたパンフレットなどを利用し適切な指導が行われていました。周辺環境の違いもあって、ほとんどの患者さんが乳幼児というのも当院との大きな違い、僕のところには、以前診ていた患者さんが子どもを連れてくるようになったし、けっこう中学生なども混じるし、

 さて、今回の目的は、乳幼児の耳鼻科診療。僕自身は、専門領域は専門家にという姿勢で診療してきました。第一の理由は、専門耳鼻科医でも難渋するという乳児の鼓膜所見を確実に見れないからです。で、右の写真は超極細ファイバースコープでディスプレーに鮮やかに映し出すという優れもの、これなら手技は簡単だし、何しろお母さんでも所見が一目瞭然です。反復する中耳炎は小児科でも耳鼻科でもなかなか適切な対応ができません。ついつい薬を投与しすぎたり、余計な処置を繰り返しています。耐性菌の問題も放置できない状況です。ワクチンの開発も考えられているほど、、、。ということで、この器械を駆使して少し積極的に耳鼻科領域に足を突っ込んでみたいと思っています。

 忙しい時間に、多くの知識と技術を惜しげもなく披露してくださったT先生に感謝します。昼飯までおごってくださって!!またの再会を約して今度は臼杵経由で帰路につきました。

2004 SEPT4~5 愛媛県小児科医会第43回教育集会・総会(松山)

毎年春、秋に行われる愛媛県下の小児科医の勉強会です。今秋の内容は「不登校、引きこもりの背景〜母親の病理に焦点を当てて」という、精神科の先生の講演、および「一般外来での心身症の診かた」という、この分野では日本でも有名な先生の講演でした。前者では、今後、小児科と精神科の結びつきがいっそう深まるであろうことを予感させましたが、現状ではまだスタンスが少し違うことを感じました。後者は、題名とはややかけ離れた育児、教育文化論が展開され、それはそれで大変面白かったのですが、ご自身もおっしゃっていましたが、今の風潮の中では、異端てき発言が多く見られました。

それはともかく、私はその前日の午後から東京へ行っていました。以前書きました、永井明君を送る会が5日に予定されていたのですが、上記学会と重なるため出席できない旨を伝えますと、数名の仲間が前夜祭を催してくれたため、急遽出かけたわけです。それともう一つ、午後休診にして間に合う最も早い便に乗ると、前夜祭まで3時間ほどの余裕がありました。いっぽう、小児科のMLで親しくなったM先生は、当日夕方の便で山口へ向かわれることになっていました。羽田で二時間重なる、会わない手はないということになって、ラウンジで貴重な時間を過ごしたのです。MLでは、頻回にやりとりしていましたが、お会いするのは初めて、緊張して出かけました。が、初対面とは思えぬ雰囲気でアッという間に時間は過ぎました。彼の速射砲のようなしゃべりに、ひごろ寡黙な私も引っ張られて1カ月分くらいしゃべってしまったわけです。年齢がほぼ同じですから、学生時代の友人に共通の人がいたりして、話はどんどん拡がってしまい名残惜しかったのですがおたがいの目的のためまたの機会を楽しみに分かれたのです。

で、永井明を送る会前夜祭は新宿二丁目のとあるスナックで行われました。周囲はゲイの人たちばかりで、ちょっと一人ではふらふらできない雰囲気の町です。永井が生前好んで通っていたスナックのママが、土曜日は定休日であるにもかかわらずわざわざ店を開けてくれました。ここで、また新しい出会いが生まれました。年齢は秘密ですが大変若々しい女医さん、最近さまざまなネットワークが拡がり、その必要性を痛感しています。

2004 AUG21~22 第14回日本外来小児科学会(大分)

昨年は仙台で開かれたこの学会ですが、今年は大分県が主催しました。何しろフェリーを使って車で3時間ほどですから、これほどありがたいことはありません。まして、大分県とは、かねてから小児科医どうし交流も深く大変楽しみにしていました。患者さんも少なくなるこの季節、多少暑くても小児科医としては出かけやすいのですが、問題は天候でしたが、やはり2日前まではひやひやものでした。台風15号が通過し、大分も巻き込んでかなりの風雨が続いていたからです。

しかしながら、20日からは回復に向かい、多くの先生方は影響なく参加できたようです。メイン会場は、大分市内の集合文化施設オアシス21、ホテルや、コンサートホールが集まった巨大スペースでした。この種の学会は規模が大きくなるに連れて会場が広く複雑になるのは避けられませんが、今回は、大分の先生方(小児科医会会長みずから)な、各クリニックのスタッフなどが多数ブルーのTシャツ姿で案内に立ってくださり、右往左往して時間を浪費することなく済みました。

私は、21日早朝宇和島を出発、6時30分のフェリーに乗り、別府港着、およそ20分走って大分の会場に着くことができました。会の始まりから遅れることなく参加できたわけです。まず、リサーチ報告を聞きました。「おたふくワクチンの副反応調査」「インフルエンザワクチンの軽症化効果」いずれも、実際に接種するのは外来開業医が多いわけですから、多くの症例を集めることができ、説得力のある報告でした。続いてスペシャルインタレストとして小児救急電話相談の各地の現況報告、これは、厚生労働省が予算を出して、小児科医に電話相談に応じろというまことに「丸投げ」事業で、パイロット的に行った県では、風呂も、飯も、トイレも行けなかったとか、そりゃ〜県単位で一人の医師が応じるとなると、電話は鳴りっぱなし、つながらなくなるに決まっています。そのくらいの予算でやろうというわけです。トラブル対策、後送病院も決まっていませんから、愛媛は当面勘弁してもらいました。
お昼には、軽食をいただきながらの「ランチョンセミナー」がありました。これは、抗生物質の使い方についてですが、薬屋の提灯持ちみたいな講師の話で、食事がなかったら寝ていたでしょう。13:10からはブラッシュアップセミナー「育児支援をはじめよう」という橋本武夫先生の講演というより講義を拝聴しました。とてもここでは紹介しきれない盛りだくさんの内容で、多々感銘を受けたのですが、一言でいえば、医者たるもの、常識に囚われピットフォールに落ちるなということでしょうか?常に感性を磨き、変わる勇気を持てと、、、、。ということで、15:30までびっしり勉強させていただきました。次の日も会はあったのですが、お盆も休まず仕事をしてきた私自身にちょっと休みをあげ、湯布院の湯につかってきました。由布高原の早朝(ちゃんと時刻が入っているでしょう)の風景です。ちなみに温泉は循環濾過方式のようでしたが、ま、そんなことは気にせず、疲れを癒してきたというわけです。ちなみに、次の日は激しい雷雨に見舞われました、してみると全国の小児科医は皆さん行いが良いということでしょうか?

2004 JUL 11 永井明のこと

ご存じの方も多かろうと思いますが作家?医療ジャーナリスト永井明君が11月7日七夕の日に亡くなりました。享年56歳。彼は学生時代から、医学部の問題、医局制などに激しい批判を浴びせた闘士でした。私は、社会医学研究会なる、やや軟弱な、リベラルとも言えるグループを率いていた時期があり、根っこは同じですから意気投合して今日まである意味で「心の友」であり続けました。彼が本当に医者をやめた頃、私は本気で開業医の有り様を探りはじめていたわけで、まぁ、両極端の道を歩んできたわけですが、数年に一度会うと、昨日の続きみたいな感じで飲み始めるわけです。彼がB型肝炎であまり調子はよくないということは聞いていましたし、彼の生き様から、じたばたもしないだろうと思っていましたが、本当に最後まで仕事を続け、入院を拒否し事務所で奥さんと数名の知人に看取られたそうです。正月には、南極へ行き、その写真集を送ってくれていましたから、またこいつ、写真家にでもなるのかと思っていましたから、56歳で!は堪えました。私も、あと1カ月あまりでその歳になるわけですから、、、。彼の著作は、医者と患者の関係をほぐしたという意味で評価されるべきです。なに、医者なんて偉そうに見えてもこんなもんさ、、、、彼の最後の言葉は、「すいません、、、たばこを一本、、だったとか」11日の日曜日、日帰りで横浜の自宅を訪ね、線香をあげ、奥様とぼんやり昔話をして帰ってきました。

 

2004 JUN 19~20  第14回日本小児科医会セミナー(名古屋国際会議場)

昨年は仙台で行われたこのセミナー、今年は台風が確実に近づきつつある名古屋で開催されました。飛行機大嫌い人間の私ですが、HP委員という立場上キャンセルもできず(すでに一度同じ理由でキャンセルしている)、意を決して出かけました。松山ー名古屋間は、フォッカー50というプロペラ機、見てのとおり大きな自転車程度の車輪がついていて、離陸直後抵抗を少なくするためでしょう、アッという間に格納されてしまいます(貴重な写真)。出発前夜から、普段と違うなま暖かい風が吹いていましたが、何とか順調にフライトしてくれて、無事19日午後名古屋に到着しました。
この飛行機は、オランダ製で製造元はすでに倒産したと聞きました。見てのとおり、翼は胴体の上にあり、実に人間的というか、かわいいし、気流さえよければけっこう安定した飛行をします。でも、着陸直前の何分かは揺れが予想されますので乗務員も着席させていただきますというアナウンスが必ず(乗ったのは三回目)流れます。で、こうして降り立つと客室乗務員(スチュワーデスの方がやはりいい)が女神のようにみえてしまうわけです。
さて、バスとタクシーを乗り継いで国際会議場へ到着、初日午後の講演に間に合いました。Tは、「環境に優しい21世紀の自動車を目指して、ハイブリッド車の開発」と題して地元超有名企業の研究者のお話でした。単に低公害車開発というお話ではなく、緑化、海の蘇生といったことまで含んだトータルな研究をなさっている、さすが就職希望ナンバーワン企業の底力を感じさせました。最終的には、少子化社会における次世代日本人の育成ということにまでかかわっておられます。

Uは「歴代徳川家のカルテ」と題されたもの、昨今の学会にはこうした異業種?からのお話が必ずもうけられるのですが、というか、専門分野の演題は1年やそこらでそう大きく変化するわけでもなく、重箱をつついたような議論ばかりになりがちで、マンネリ化しているのです。ただ、多少医学史に興味を持っている人間にとっては、今回はくいたらなかった、お妾さんが何人にて、子どもは何人といった話ではどうも、、、私自身看護学校で話をしていたことで、当時の大奥ですらそのうちどういう病気で何人亡くなったというあたりまで突っ込んでいましたから、、、、、。

次の日の朝の受付風景、この巨大な会議場は実にわかりにくい迷路、多目的といわれればそれまでですが、ま、学会場を右往左往するのが学会といえばそれまで、たまに昔懐かしい先生に会うのが目的かもしれません。この日の教育講演は、「育児支援に役立つ母乳育児の最新知識」母乳で育てたいのに、なぜ挫折するのかという主旨でした。なかなか。ついで「子どもの心の発達を守るために 虐待臨床から見えるもの」有名な杉山登志郎先生の講演でした。限られた時間内ではちょっと、、、、それにしても、予約が三年先とは!!続いて小児科医会HP委員会、昼食をとりながらかなり活発な意見が出ました。どんどん充実させていきます。ただし、どちらかというと医師向け、このHPのような相談コーナーを設けたかったのですが、オフィシャルページとなると意見が集約できないだろうということで没、しかたない、私が頑張るしかないか、、、、。で、この頃から風も強まり、予定を少し早めて新幹線へ変更し帰ってきました。したがって、目玉の「久保純子の子育てトーク」は聞けませんでした、そもそも聞く気はさらさらなかったけど。

 

2004 FEB 11 全国都道府県小児科医会社会保険担当理事と、医会・学会社会保険委員会との合同連絡会議(東京)

 2月11日、午前11時より開催された、全国都道府県小児科医会社会保険担当理事と、医会・学会社会保険委員会との合同連絡会議という長たらしい名前の会合(東京駅ルビーホール)に出席しました。

 異例の低温で雪も多く、なかなか溶けない時期で当然飛行条件が気になっていましたが、まず最初から躓きました。宇和島松山間の信号機故障が1日以上快復せず、バスで振り替え輸送となってしまい、イライラ、それにしても振り替えを依頼されたバス会社さんの応対の冷たいこと、JRさんののんびりしていること、ま、こんなもんでしょう。

 本来、中医協が2月6日に開催され、平成16年度診療報酬改定
が答申され、その説明会のはずであった本会は、中医協が2月4日に続き中止となったため、今までに要望してきた諸問題についての、
説明と、それが診療報酬改定に盛り込まれるかどうかという憶測、
希望的観測等の発言にとどまりました。今改定の争点となっている「DPCの民間病院への拡大」をめぐる調整は、水面下で引き続き行われ結局13日答申というスケジュールになってしまい、何をしに行ったのやら。関連して#8000問題、消費税問題、小児科医会が先日発表したメディア規制問題、予防接種週間問題などが話題になりました。肝腎の平成16年度診療報酬改定では、小児科がずいぶん良いように報道されましたが、大病院にはたしかにちょっと光が差したようですが、我々診療所にはなんのメリットもなし。ふ〜。

 さいわい当日の気候は全国的に腫れ、素晴らしいフライトを味わっただけでした。


AUG 30~31 日本外来小児科学会(仙台)

 偶然ですが小児科関連の大きな学会が仙台で行われました。5月に続いて出席しました。前回感激した「はやて」(写真右)に乗ると、東京から1時間半、何しろ上の、大宮以外止まりません。次は仙台ですからうっかり眠れないくらいです。車窓からみえる風景は青々していますが、本当に冷夏だそうで、夕刻駅に降り立つと、久々にぶるっ、さむっ!という言葉が出そうでした。

 翌朝7:30分という早朝からの「麻疹0プロジェクト」に出席するため、夜は早々に引き上げましたが、すでに冷たい雨が降ったりやんだり、次の日学会の合間に訪ねた伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」(写真左下)も深い杜の中で濡れてしっとりたたずみ人影もまばらでした。

     
 時間は前後しますが、31日午後から特別講演として18代仙台伊達家当主泰宗氏(写真右)による「伊達政宗400年の時を越えて」を聞いてきました。さまざまな歴史の毀誉褒貶があるが、400年という時間を積み重ねると、結局それらは小さくはかないもの、河原の石を天秤に交互に載せていくと、最初は傾くとしても400も積めばバランスもとれるものだ(これは私の勝手な解釈)といったお話に聞こえました。ロビーで名刺をお渡ししたところ「重臣の聞いています」と返されたのには時を越えて「恐れ入りつかまつります、、、」と口に出そうでした。

さて、肝腎の「麻疹0プロジェクト」定刻に行っても席を探さなくてはならないほどの盛況、天候とは裏腹に暑いものでした。詳細報告は追って→

 

MAY 25 阪神・ヤクルト戦 松山坊ちゃんスタジアム

ものごころついた頃から、なぜかタイガースファンでした。もちろん強かったのは巨人、でも、小さい頃から、弱きを助ける気持ちがあったのでしょう、柏戸も大好きでした。そのタイガースが18年振りの快進撃、松山での公式戦となるとなにはさておきオオエンに行かざるを得ません。前夜からの風雨に中止かと思われましたが、今週も日頃の行いでご覧のとおり、風は強かったものの絶好の天気、対戦相手のヤクルトには宇和島東校出身の岩村、宮出両君がいますが、岩村君は怪我でお休み、そのかわり宮出君がプロ入り第一号ホームランを打ちましたが、阪神6−4で逆転大勝利!!!!!!!!!、まぁ めでたしめでたしでした。

MAY 17~18 第14回日本小児科医会セミナー 仙台国際センター

天気予報が悪く最後まで躊躇していた仙台行きでしたが、日頃の行いが良いせいか、17日午後から晴れ間もでて、さすがの私でも文句ないフライトで、羽田へ飛び、東北新幹線「はやて」に飛び乗って、アッという間に杜の都到着でした。宇和島市とは縁の深い町ですが、なぜか機会に恵まれず、何十年振り2回目の訪問になりました。

会場は国際センター、三の丸の中に美術館と向かい合って位置し、まさに緑に囲まれた落ち着いたところでした。

さまざまな講演の中で、特に印象深かったものは、京都の女医さんが発表された「子どものあざの治療はあかちゃんのうちに」という演題でした。前後に予防接種の演題、気管支喘息の演題があり、ちょっとコーヒーブレイクに出ようかと思っていたのですが、ついつい引き込まれて聞いてしまいました。要するに、たとえば蒙古斑、苺状血管腫、ほくろ、ただのあざなどほっておいても消えてしまうか、まあそれほど目立つわけでもなし、悪性化するものでもないものは、従来育児相談でもそのように指導してきたわけですが、その先生は最新技術を使えば副作用もなく、きれいにとれる、、ちょっとしたあざでも幼児期に気になって精神的影響が出ることもあり、「きれいにしてあげた方が良いんじゃないでしょうか、、」とすずやかな声でおっしゃるわけです。そりゃまあそうだけど、それでなくてもあちこち整形したり、薬を飲んでスリムになったり、美白効果だとか、保育園でも茶髪の子が現れたり、生まれ持っての姿じゃあもう生きていけないのかな〜、今のおかあさんたちはやはりあかちゃんの頃からそういう傾向なのか、、、とすると我々の育児相談も心しなくては、、、など複雑な思いに駆られたのでした。

 

APR 26~27 第106回日本小児科学会学術集会 福岡シーホーク ホテル&リゾート

台風2号崩れの熱帯性低気圧が通過した26日、午後から休診として福岡へ飛びました。(飛行機の嫌いな私は松山、高速フェリー、広島、新幹線経由で入ったので飛んだというのはあくまで急いでいったということですが)会場であり、宿舎でもあるSEAHAWK & RESORTの偉容です。名前からも推察されるとおり、福岡ダイエーホークスの本拠地ドーム球場に隣接しています。バブル崩壊の影響が最後まで受けなかったため、もしかしたらもう一つ同じセットが予定されていましたが、もしできあがっていたら今頃ダイエーのダの字もなかったでしょう。開閉式天井は、1回開くのに何百万かかり、バブル崩壊後は閉まったままというまことしやかなウワサがありましたが、この日も真っ青に晴れ上がった空でしたが、ぴったり閉ざされていました。到着してすぐ、イブニングセミナー「喘息ガイドライン」をかじって、後輩がセットしてくれた中州の寿司屋へ直行しました。何でもかんでもガイドライン化するのに異論があり、後輩たちとの日々の診療の憂さ晴らし、情報交換の方がの方がずっと有意義だからです。
大きな学会の欠点は、会場が分散化されせっかく遠路はるばる出かけていってもほんの一部しか聞けないということで、どうしても改善されません。今回は、巨大なホテル内で行われ移動する手間は少なかったものの、A~Eまでの主会場、ポスター展示が8カ所、その他医療機器の展示、関連書物の展示販売場などがあり、1〜3階をいったり来たり、最近はおみやげをその場で宅急便で送ってくれるコーナーもでき、便利にはなりましたが朝8時半頃から夕方までしっかり勉強するとけっこう疲れ切ってしまいます。立場上、教育講演を主に聴いてきました。国立感染症研究所感染症情報センター谷口清洲先生の講演は、急遽演題が変更されSARS関連のものになりました。新幹線の中で読んだ週刊誌によると、生物化学兵器と書かれていましたが、講演内容は未発表のものが含まれるので引用しないようにという前置きではじまるなど、かってなく非常に危機的捉え方をされているのが強く感じられました。
基調講演は国立成育医療センター(国立小児病院を統合した日本小児医療のメッカ)総長、松尾宣武先生による、「小児科医の新しいリアリズムを目指して」という斬新な内容でした。わが国の乳児死亡率は、20世紀の終わりには出生10004を下回り,世界で最も優れた水準となったが、しかしわが国の子どもを取り囲む環境や子どもの実態はこの世界最良の乳児死亡率が示すべき"理想的社会''とは大き
くかけ離れている
、とし、乳児死亡率はわが国を含む先進渚国においては小児保健指標としての普遍性を失ったとの前提で話は進みました。そして、もはやその更なる低下は殆ど実質的意味を持たないと、言いたくてもなかなか言えない現状に踏み込み、小児科医は家庭、学校、地域社会の機能不全に基づく社会病(socialmorbidity)に対応しなければならないと檄を飛ばされたのです。とりわけ、2〜3の問題としてさりげなく、かつ過激な問題提起をされました。官僚主導では、将来の小児科のグランドデザイン(使い古されたとしビッグピクチャーという言葉に置き換えられましたが)が描かれない、小児科医自身が構築すべきと、暗に厚生労働省を批判し、小児医療が抱える諸問題の元凶として、生殖補助医療(不妊医療)を挙げ、乳児死亡率にかわり超・極小未熟児出生率低下がもっとも進められるべき課題と指摘されました。生殖補助医療がさらなる不妊を引き起こし、さらなる新生児医療への傾斜を進め、小児科医は疲弊していくという議論は危険すぎるようにも思えました。たしかにこの統計値の背景には様々な社会病理があり社会病理に対する小児科医の戦略的挑戦を促されたのです。しかし、翻って私に言わせれば、新生児医療を代表に、さまざまな先進的医療を推進してきたのはまさに学術団体である小児科学会であり、今回の学会で競って発表された多くの演題もまさにその流れに逆らってはいないではないかとのおもいがかけめぐったのです。

 

FEB 03 たそがれ清兵衛

人は仕事が忙しくなると、余計に無理をして遊びたくなるものですが、インフルエンザがまだまだ下火にならない2月中旬、とんぼ返りで松山まで出かけ、話題の時代劇を見てきました。たまたま原作者、藤沢周平に惹かれていて、「三屋清左右衛門残日録」など、静かな時代小説を読んだばかりでもあり、どうしても!という想いでした。何が話題かといえば、まずこの著名な人気作家の作品が初めて映画化されたこと、監督が山田洋次で、彼にとって初めての時代劇であること、宮沢りえがでていること?などです。映画に疎い私は勘違いをしていて、てっきり「三屋清左右衛門、、」の映画化だとばかり思っていてその淡々とした隠居侍の些細な事件がからむだけの小説を、山田洋次がどう映画化するのかというその手腕に興味もあり出かけていったのですが、 実は「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」という三小品を監督がアレンジしてこの映画にしたのだと知り、納得しました。織田信長や、武蔵が派手に暴れるような小説ではないからです。三作合わせ、何とか2時間余の映画にまとめ得たわけですが、まさしく藤沢周平の世界を描ききっています。山形庄内の海坂藩という小藩にあり、下級武士として、大切なものを想い、慎ましく、控えめでありながら矜持を失わないという我々が失ったものを静謐な画面に再現したのです。監督は「日本人が確信を持って生きていた時代があったことを示したかった」と述べたそうですが、世界三大映画祭の一つベルリン国際映画祭で最優秀作品の金熊賞にふさわしい」と賛辞を受けたのもうなずけるのです。左は松山に残っていた最後のパンフレット、宮沢りえも好演、最後に陽水歌う主題歌が、、、、。

20 NOV 02 長谷川陽子チェロリサイタル松山

ちょっとしたごたごたでバタバタした週のなかば、私にとってのアイドル、長谷川陽子さんの松山での3年振り2回目のリサイタルに駆けつけました。1児の母になった彼女は、'91年2月宇和島の公演をお手伝いして以来の大ファン、スケールの大きい演奏はもとより、この夜ステージでくり広げてくれたトークからもうかがいしれる飾り気のない明るい人柄に惹かれ続けているのです。プーランクのソナタ、フロートのカルメンファンタジーなど、珍しい、しかも意欲的なプログラムで魅了してくれた後、エネルギッシュにサインに応じるお姿です。さらにこの後、繁華街へ繰り出し、呑んだり食ったりしながら子育ての話し、昔の思い出話に花を咲かせたのです。

 

13~14 AUG 02 徳島阿波踊り参加

阿波踊りを踊ってきました。2度目です。徳島には、大学時代からの畏友がいて、毎年のように誘ってくれ、3年前初めて参加しましたが、まさに同じあほなら踊らにゃ損を体感し、今年も勇んで行ってきたわけです。駅に降り立ったとたん、例の鉦と太鼓、笛による単純な2拍子のリズムが聞こえ、もう暗くなるのが待ち遠どうしいくらい。今年初めて参加の京都のK先生ご夫妻も最初は尻込みされていましたが、終わったあとはすっかり虜になられたようで、痛いと言っていた腰もなんだか治ったようでした。お盆に入り今年も折り返し、憂さを晴らして後半へ備えてきたというわけです。皆さん、来年は親子揃って参加しませんか?こおり小児科プレゼンツツアーを企画しようかと思っています。

21〜22 JUN 02 第16回小児救急医学会(神戸)

梅雨とは思えないさわやかな夏至の日、神戸ベイシェラトンホテルRICホールで、上記学会が開かれ参加してきました。前の日、きちんと最後まで仕事をし、夜のフェリーでのんびり出かけ、朝6時50分ポートアイランド埠頭着、会場はそこから歩いてもいける距離、実に効率よく、ゆっくり朝のコーヒーを粘って9時開会冒頭から最良の席に陣取っていました。まず「シンポジウム「子どもの死とバイオエシックス」。そもそもバイオエシックスという用語は、日本では通常「生命倫理」と訳されているようですが、1970年代にアメリカで生まれ育った「新しい生命と医療の倫理学」ということ。ギリシャ語に語源をもつバイオ(bio 生命)とエシックス(ethics 倫理)の複合新語です。→ この学問の発端は、アメリカで起こった患者の人権運動であり、患者が医師任せにせずに自分で判断して同意した医療を受けたいと主張したことに始まり、つまり今はやりのインフォームドコンセントの基礎といえます。そもそも、医師はギリシャ時代からの「ヒポクラテスの誓い」を医の倫理として尊重し、すなはち「医師は、自分の能力と判断に基づいて医療を患者のためになるように行い、決して害になるものを与えない」としてきたわけですが、トウゼン独善的、高圧的という弊害に陥ったわけです。シンポジウムではインフルエンザ脳症であかちゃんを突然失ったおかあさん交通事故で息子を失った医師であり父親、を中心に、医師がそうしたときどういう姿勢で臨むべきか、何がおかあさんを傷つけたか、その後の家族へどう向き合えるかなど重い課題が話し合われたのです。子どもが亡くならない今日の日本で、子を亡くした親の存在感に、医療者側はたじたじであり、その後続いた「医学的演題」はきわめて空虚ではありました。
次のセッションは、中坊公平氏による「いま医療に求められているもの〜信頼の医療」と題された講演でした。いうまでもなく、この学会の今回の目玉であり、その時間に合わせて席もどんどん埋まっていきました。いろいろ著書もあり、テレビなどでも話しっぷりはすでに知っているわけですが、ライブは音楽だけではないということをあらためて感じた講演でした。レジメを配られたのですが、結局その半分までしか到達しないという熱弁で、「私は、、、、思うのであります」という主語をはっきりとした圧倒的迫力でした。→ 内容をかいつまむと、現行医療制度はすでに制度疲労を起こしている。医療の荒廃の根本はそこにある。医師や、弁護士、僧侶は人の不幸の上に成り立った職業であり、人の不幸を金にかえてはならないと断じ、それが公平に成り立つためには、患者も学び、自立しなければ対等な関係は結べないと、まあ医師の学会で医学界をばっさり切ったかと思うと、返す刀で、、、というふうでした。たしかにこの方の実績から来るもっともな話ですが、医者も患者もそれぞれに強者、弱者があり、やや理想論に近い話をされると、若干鼻白む想いではありました。↓
神戸ベイシェラトンタワーズ&ホテル前の、

モニュメント、小児科の学会にはふさわしいな

と、じっと見つめていました。

そもそも、誰かと一緒にしてはいけないのは承知ですが、声高の人はどうも苦手で、、。何しろ、ワールドカップのさなか、本命と目されたフランスがあっさり敗退し「セラヴィ」の言葉とともに帰国したわけですし、韓国は赤唐辛子色に染まり、なにやらファッショの危険さえはらみ準決勝を待っていた時期ですから、、、、。医療を取り巻く状況はまさしくどろどろした個々の人間の想いを反映していくしかないと私は思っているのであります(おっと、口調が似てしまいました)。ま、それはともかく、とりあえず喝を入れられ、チョコレート、クッキーを手に次の目的地広島へ向かったのであります。

 

 

 

14 APR 02 第2回大分、愛媛小児科医会合同懇親会(大分)

 昨年からはじまった海を挟んで隣り合わせの二県の合同懇親会が今年は大分市で開催されました。昨年はといえば、道後に集まる日のまさにその昼、例の芸予地震が発生したのです。移動中の大分組は船中であったか、走行中であったか、気づかぬ方も多かったらしいのですが、рェ全く通じぬ私は、中止覚悟で、高速にも乗れず、トロトロ遅れて到着、なま暖かい刺身と、冷えた肉を咬みながら己の不運を呪ったものです。

右写真は臼杵の石仏

 今年は快晴、真夏のような気候に恵まれ、その中でふくをいただきながら、差し迫った小児医療をめぐる諸問題を討議したわけですが、大分県はすでに予防接種を全県広域化したり、小児救急、プレネィタルビジットのパイロット的事業を進めたり、実に先進的な活動をされているのですが、なにより教わったことは、小児科医同士の世代間の融和、ならびに、実に柔和で優しいにこやかな先生が多いことでした。そうした先生方だからこそ、小児に顔を向けた事業がどんどん進んでいくのでしょう。

1 MAR 02 第37回愛媛県小児科医会生涯教育集会(松山)

年二回、恒例の学会です。今回は「小児結核の予防と治療」と題されたシンポジウム、横浜市大教授横田俊平先生による「小児結核の現況とツ反、BCG」という特別講演がありました。シンポジウムで供覧した、国立療養所愛媛病院小児科からのレントゲン像は、今でも身近にあり得る肺結核をあらためて再認識させるものでした。ほとんどは家族からの感染、長びく咳では、頭に置いておく必要があります。横田教授は、ロシアで増えているジフテリア、MRSA、などとともに注目の再興感染症として、特に人口密集都市での結核の意義を強調され、基本技術としてのツ反の問題点など日常診療に役立つわかりやすいお話をされました。右は松山城、ゆかりの子規も結核に倒れた文人の一人です。

 

8~9 SEPT 01 第11回日本外来小児科学会年次集会(宇部)

 台風15,16号の挟み撃ちを警戒しながら、松山→スーパージェット(水中翼船です)広島→新幹線小郡→宇部線宇部新川というルートでたどり着きましたが、宇和島を出ておよそ7時間、こんなに近くて遠い学会は初めて、宇部の方には失礼ながらこんな田舎町とは思いませんでした。何しろ宇部線は単線、2両編成の電車が1時間に1−2本、小郡を出て緑をかき分け、海岸線をことこと走ること40分余りようやく右の写真渡辺翁記念会館に着いたのでした。渡辺翁とは宇部興産の創始者、つまり宇部市の生みの親ともいうべき方で、この会館の前には巨大な、まるでロシアの町で見かけるような銅像が屹立していました。
 学会で演奏会(私的ではなくプログラムとして)を聴くのも初めて。題して「感性による子育て〜金子みすずの詩心にふれて〜」現代の子育て、そこには人としての優しさ、温かさなど、思いやる心がどこかに置き忘れ られ、まさ に感性が萎えてしまっているとし、 子どもが本来持ち合わせている豊かな感性、新鮮で美しく驚きと感激にみちあふれ る世界、それを引き出す大人の目と心が大 切で、子どもの中 にそれを見つけ出す大人自身の豊かな感性が問われるとの立場から、金子みすす"の詩に、曲をつけ、われわれ小児科医の感性を問う試みでした。
 ついで本番、五十嵐こどもクリニック、五十嵐正紘先生(元自治医大小児科教授)による「Evidence based pediatrics and child health)という基調講演、まぁ感と経験にたよった小児医療でなく、きちんとした正確な事実の基づいた医療を行えという主旨。確かに山のようなゴミといえる論文、情報に振り回されがちなわれわれ、しかしそれを余り強調されると、30年前高橋胱正の「計量診断学」「社会の中の医学」を読み心酔し、挫折していった感覚がよみがえってくるのでした。「EBMは、方法論のしっかりした臨床研究に根拠をおいた診療を提供しようとする、診療の質の向上 運動であり、(中略)個人的経験(かん)からの脱出、権威者の主張からの脱出である。(中略)長期予後やQOLを指標とした最終予後を問い、医師の満足だけでなく、子や親の満足を問うことで、医療の結果の質を問おうとする運動である。(中略)今の小児医学で欠落しているのは、小児期の保健`医療・福祉を通して、結局どういう大人が生まれ、どういう生涯を送るのかという、長期的物差しによる小児医療の評価と実践である。」と述べられたが、そこには氏の屈折した思いがうかがわれ、今ひとつ説得力に欠けるのでした。そもそも、どういう生涯が良いというのでしょうか?
 むしろ、ついでおこなわれた東行記念館(東行庵)副館長 一坂太郎氏による特別講演「吉田松陰と松下村塾」は、山口県萩市で、幕末のころ吉田松陰が主宰した松下村塾の成果を挙げながら、つまり、ごく短期間に、ごく小さな私塾で、ごく近隣の普通の子どもたちを幕末から明治にかけて、日本の近代化を支えた数多くの「人材」に育てた松陰の教育の在り方に関する指摘は、私たちに強い衝撃を与えたように思います。

 帰りも同じルート、右写真は海上自衛隊“PKO空母”おおすみ、例のペルシャ湾へ出かけた船です。偶然瀬戸内海で遭遇しました。艦番号は輸送艦が4100番台ですが、これは4001番になっていて、単なる輸送船ではなさそう。「全長178m、排水量8900t 。この種のものでは最大級。装甲兵員輸送車を4台も積めるホバークラフト(高速揚陸艇)を2隻をもつ。甲板は異様に広く、どう見てもヘリ空母の機能をもつ強襲揚陸艦である。戦闘機やヘリを搭載兵員1000名が乗れるから、装甲車両と対戦車ヘリをもつ1個戦闘単位を海外に投入可能な能力をもつことになる。艦橋に航空機管制スペースらしきものも見えるから、将来的には垂直離着陸機(VSTOL) を載せるつもりだろう。イージス艦や支援艦艇と組み合わせれば、1個空母機動部隊を日本がもつことになる」とネット上で紹介されていました。

 

19 MAY 01 第6回全国病児保育協議会施設長・主任研修会

 大阪吹田市、千里万博公園にあるホテルで、上記研修会が開かれ参加してきました。大阪の地理に疎い私でも、空港からモノレールで乗り換えなし、ずいぶん便利なところで、こうした会議はこういう所でやって欲しいものです。ホテルの正面に懐かしいモニュメントを見つけました。「人類の進歩と調和」テーマに1970年3月14日に開幕した、いわゆるEXPO70のシンボルです。そう、まさにこの頃から日本は高度経済成長期に突入し、何もかもが失われていったのではないでしょうか。岡本太郎が製作したこの像、論議を呼びましたが、私は不吉な想いで当時から近づかなかったのです。→  進歩したつもりで、調和を欠いてしまったこの国の再生のためにも、是非永遠に残しておいて欲しい塔ではあります。大学に入ったばかりでしたが、あの狂騒ぶりに背を向け無医地区活動にあけくれていました。その無医地区も高速がついたとたんリゾート別荘地へと変貌しました。いったいなに!という思いが残った学生時代でした。人々は地方から都市へ集中し、核家族化、地域社会は崩壊し女性の社会進出とともに、子どもたちの居場所はなくなり、病児保育施設なるものは必要悪と言われるかもしれませんが、必然でもあるのです。そうした施設の責任者が集まる会がまさにこの場所でおこなわれたのも感慨深いものでした。
 会議は青山学院大学教授庄司順一先生による「なぜ、病児保育が必要かー子どもの心、親の心」と題された基調講演に始まりました。病児保育協議会が発足して約10年、あらためて、その意義、意味を問い直そうというという趣旨です。
まず、日本特有の育児不安という言葉の理解から出発し、プラットフォームで駆け回っていた子どもに「危ないよ」と声をかけたところ母親らしき女性が近づいてきて、
「Thank you」といわれ、初めてその女性が外人なのに気づいたエピソードが紹介されました。他人の子どもを叱ったり、注意すると逆切れされるご時世、今でもたしかに外国人の子どもへのまなざしは
パブリックです。育児不安に対応する言葉として、maternal anxiety,maternaldepressなどがあるそうですが、いずれも母親自身の身体に対する不安、不調を示し、育児ノイローゼ、育児についての心配、子どものことでどうしたらいいかわからなくなるという日本型の育児不安はやはりまわりの人々や、地域の支えが失われた社会における特有のものといえそうです。
 一方、子どもは5歳までに約1/4が、何らかの形で入院を経験するそうです。
子どもは病気をするものということを前提にしたシステムが求められているのです。
さらに病気という経験をプラスに転じていく必要があり、保育と看護の重なる病児保
育は、高い質を要求されます。病気を治しながら、楽しく過ごせる場所でなくてはな
らないのです。けっして母親と離れ不安におののき、つらい思いをしながらでは「支
え」としての意味が失われる。当然のことながら、やむを得ない入院と違い、預けて
良かったという施設、対応、を目指さなくてはなりません。
後半は、各施設長、行政サイドから運営に関するパネルディスカッションがありまし
た。
市町村でまったく取り組みが違う状況は、平等を謳う憲法違反ではないかと思うほど
の開きがあります。


 

30 NOV 00 プラハ放送交響楽団松山公演kotova

約1年振りにコンサートへ出かけた。モルダウ、ドヴォルザークのチェロ協奏曲、そして新世界というプログラムは魅力的だったし、なんといってもチェロのN.コトヴァは、ヴォーグの表紙を飾り、アルマーニ、シャネルなどの専属だった元スーパーモデル、となれば、診療時間を1時間削っても許されるだろう。使用した楽器は、グアルネリの「ベア」、かなり大きなサイズに見えたが、178cmの彼女は片手で軽々運ぶ。このチェロの音は重く、深く、すこぶる良い。長くしなやかな腕で包み込むように構え、時折顎をぐっと突き出す。モデル業で培った、聴衆を惹きつける技を織り交ぜ、独特の節回しもゆとりがあり、15歳でプラハ国際コンクール優勝という実力を遺憾なく発揮した公演だった。ただ、この人は基本的におとなしいのか、自己コントロールするのか、全体として静謐な音楽作りをするように思えた。不満を持つ人もいるかもしれないが、この曲を下品に弾いてしまうチェリストは多い。

22 NOV 00 野村町 乙亥大相撲

野村町は宇和島から北東へ車で約30分、静かなやまあいの町です。年に一度、九州場所が終わったあと、この地で江戸時代から続いているという乙亥大相撲が行われます。幕内力士玉春日はご当地力士、その後援会長が同窓生ということでお招きを受けました。冷え込む空気を熱する勝負が続きました。右は千代大海関の大きな背中。このあと後援会長宅で宴会に臨みましたが、両関取ともお酒は飲めないそうです。詳細は

26-27 AUG 00 第10回日本外来小児科学会年次集会(埼玉・大宮)#omiya

 日本外来小児科学会は第10回を迎えましたが、松山市の徳丸先生が提唱し、研究会として発足、第一回は同市で開催されたという愛媛県の小児科医にとっては縁のある学会です。多くの医学会が、我々開業医の仕事とはかけ離れた、あるいは患者さんの今の悩みとは無縁な悪くいえば医者の独りよがりな傾向にあるのに対し、この会はきわめて実践的であり、今回も私たちにとってもすぐに役立つ報告がたくさんありました。「学校への関わり方」「予防接種の実際と考え方」「病児保育」、そして写真家田沼武能氏による「子供は地球の鏡」など、。
 右は、ホワイエでのポスター展示の様子です。この会の特徴として、看護婦さんや、事務員などパラメディカルも参加可能なこと。服薬指導のこつや、待合室での子供を飽きさせない工夫、待合室に置く本、患者さんを待たせないユニークな方法、等々、研修では、ホテルマンによる接遇指導なんていうのもあったようです。それにしても、学会の運営というのは難しいのですが、埼玉でというのは苦行でした。この時期どこでも同じかもしれませんができれば少しでも暑さを避けた、交通至便なところを選んで欲しいと思います。
 会場は右写真のごとき立派なホテルに隣接したホールがメイン。オーケストラピットがありましたからオペラも可能で、かなりの会員が詰めかけていましたが雰囲気は閑散とし、演者の声は良好な残響時間設定のため聞き取りにくいというわけです。  

 帰りの電車では体表面積の半分近く露出した、ガングロ娘がやっかましい圧底サンダルで歩き回ったり、新宿まで延々30分あまり化粧に専念していたり、この子たちが母親になったら、、、、ア!埼玉の先生が診てくれるんだと思うとなぜかほっとはしたんですが、アドヴォカシーの時代(提言し行動する小児科医)をテーマにした、格調高い学会の後だけに、なんだか後ろめたい思いをしつつ寝たふりをしていました。

17-18 JUN 00 子供への暴力防止ネットワークうわじま第7回研修会&第61回日本小児科学会愛媛地方会 

 梅雨のまっただ中、激しい雨の土曜日、子供への暴力防止ネットワークうわじま第7回研修会が開かれました。「子どもの虐待について」と題し、今治市保健センター保健婦、田頭愛美さんが、事例を交え熱っぽく語られました。なかで、以前から私自身すすめている健診の場における不用な母親への干渉、ある種の母親いじめ、結果としての不安扇動といった行為を私たち自身が注意して行かなくてはならないという指摘があり、そうした項目をあげていく作業をしていくことになりました。 次の日は雨もあがり、早朝から松山へ、 第61回日本小児科学会愛媛地方会で、勉強してきました。純粋に学術的学会ですので、遺伝子だの、代謝疾患などの発表が行われるのですが、知っておくにこしたことはありません。

 昼休み、県立美術館で開催されている、ローコレクションをゆっくり鑑賞、左は、M.Cassatt作品、彼女は多くの母子像をてらいなく描いたアメリカの女流印象派です。ロー氏はアフリカで病院を建て難民援助に当たっている医師ですが、フラアンジェリコからローランサンまで時系列で集めた、これは珍しい個人コレクションです。

 

12 MAR 00  第33回愛媛県小児科医会生涯教育集会(松山)

 春、秋におこなわれる我々の定期研修会です。今回のテーマは「愛媛の療育」でした。療育とは、病気、障害を持った方が治療、リハビリに取り組みながら教育を受けていくシステム、医療、とりわけ周産期医療の進歩とともに、障害を持つ子供さんが増えていきます。障害のある方こそ、根気よくできる限りの教育、リハビリを受け二次的障害を回避し、その手助けをするには一貫したシステムと多くのマンパワーが必要。 高齢化社会の中で、予算はそちらの対策に流れ、この分野が切り捨てられていくのではという危機感が関係者には強いようです。会場からぶらぶら10分ほどのところに、比較的最近整備された二之丸史跡庭園があります。椿展が開かれていると聞いていたので、寄ってきました。写真はバレンタイン!という品種、まるでバラ、その他これって椿というのも多く展示されていましたが、侘助のような簡素なのがいいですね。椿の好きな方はここへ

29-30 JAN 00 平成11年度学校保健講習会、乳幼児保健講習会(東京、日本医師会館)報告

東京は、学生時代から医者の駆け出し時代、14年間住んだ街であり、そのほとんどを新宿で過ごしました。当時、京王プラザホテル 一本だけが高層ビル、今はご覧のとおり地下にはいると慣れ親しんだとはいえ、方向感覚を失います。これは宿舎にしたヒルトンホテル37階からの朝の風景です。実は、宇和島に帰って19年とはいえ、こういう無機質さを好む→ 習性から逃れられません。伊勢丹、紀伊国屋、好きなカップで飲ませてくれる珈琲屋、中古レコード店、ヘルメットをかぶってデモに参加した街なのです。徹夜の当直明け、何度となくこの場所を眺め、亡くなった患者さんのことを思ったことか、当時は、だだっ広い空き地と、規則性があるとは思えない工事現場ばかりで、遠くに富士の姿を眺めることができました。(左下)
土曜日を休診にするのははなはだ申し訳ないのですが、県医師会からの命令、二つの講習会に出席してきました。初日は、学校保健講習会、荒れる学校現場での学校医の役割がやはりメインテーマで、家庭、学校、地域を連続的にとらえ、ネットワーク構築をはかるリーダーとしての資質、方法論が述べられる一方、ここ30年間にかわってしまった子供の生活習慣について→ 「さんまがない」というという表現で、今の子供たちには時間、空間、仲間がないという現実を指摘し、とにかく遊ぶ、スポーツをすることを生活改善の要としてあげていました。これは、翌日の乳幼児保健講習会での、文部省初等中等教育局視学官の講演では「心の問題より、身体が先!」という形で触れられ、日本の子供たちがいかに追いつめられた状況にあるか(左下)
厚生省とともに、立場の違いこそあれ、深刻にとらえようとしていることは実感できたのです。これに先立っての、上智大学文学部社会福祉学科教授の講演は厚生省の保育所保育指針改訂と地域子育て支援センター構想をバックアップする内容でしたが、つい数年前まで、『母と子の絆』というキーワードで語られてきた育児の在り方を一転し、母機能の喪失を前提に、代理としての→ 保育所の機能拡大、強化を謳いあげたのにはやや慄然としました。私は保育諸機能拡大には限界がある、違うと思っています。31日の「クローズアップ現代」で30代後半で子供を産む風潮が取り上げられましたが、まさにそれが現実、文部官僚が「エンゼルプランは失敗だったでしょう。」と厚生官僚に述べたのですが、そのとおりだと思います。盛況で楽しい講習会でした。
  ↑柳沢吉保ゆかりの六義園の朝 日本医師会館から徒歩3分 

 

26 JAN 00 レニングラード国立バレー公演(松山)

幼年期の貧しい記憶がたたって、そもそもバレーには興味がなかった。太くて短い足、がたがたうるさい靴音、貧弱な学芸会もどきの舞台、男性の踊り手の卑わいな股間、単純な筋書き、どれをとっても、魅力に乏しく、晩年舞台芸術に意欲を燃やしたH.v.カラヤンが、アップに耐えられないプリマドンナは使わないと言ってはばからなかった 勇気を一つの見識だと信じている。ただし、本物のレニングラード国立バレーが、専属オケを連れて、さらに、草刈民代がゲストとなれば話が違う。インフルエンザの猛威に晒され23日は当番医で休めず一週間働きづめとなれば、小雪舞うなか、松山へ出かけていっても損はすまい。事実、素晴らしかった。

3&5 DEC 99  二つの音楽会

 奇しくも同じ編成による演奏会を二つ聴いた。ただし、一つは古楽器、他方はモダン楽器人気バイオリニスト古澤巌率いるTyphoonはもちろん県民文化会館をほぼ満席にしていたが、何故か楽しめなかったのは、特殊なスタイルを追求し切れていないぎこちなさにあるのではないか。クラシック界もボーダーレスではあるが、ヨーヨーマのピアソラにしろ所詮ブーム。南予文化会館でのLBは、その闊達な自然さで遙かに上をいっていた。

7 NOV 99  しまなみ海道

 土曜の午後、診療を終え  「子供への暴力防止ネットワーク  うわじま準備会第5回研修会に参加しました。実はこの日、夕方から医者仲間で広島経由しまなみ海道観光を予定していたのですが、どうしても講師の川名紀美さんのお話を聞きたくて、私だけ遅れて参加ということにしました。川名さんは、朝日新聞社 東京本社論説委員をなさっていて、子供の虐待を長くテーマにされています。小児虐待の事例から、少子化に至ったこの国の戦後の歴史、今の育児環境、 それを取り巻く社会の変貌、    さらには介護保険まで(介護と少子化は表裏一体、金と票になる介護政策、このところの混乱ぶりはなんだ!)など広範なテーマをソフトな語り口で、50名ほどの熱心な参加者を惹きつけました。こういう講演は滅多に聞けるものではなく、もっと多くの方々に聞いて欲しかったと思いつつ、最終電車で今治へ発ったのです。   次回は2,000年1月29日(土)「児童虐待と家庭裁判所の役割」と題して、国民年金保養センターうわじまで講座がもたれます。(残念、この日は学校保健講習会で東京出張です。)
橋はすべて多々羅大橋 子供への暴力防止ネットワーク   早朝の福山城(左上)
 翌7日は立冬の前日でしたが半袖でも汗ばむほどの陽気。ご覧の通り、美しい橋で結ばれたしまなみ海道を走りました。開業当初は夕方目的地に着くはずのツアーが夜中の3時になったとか、それもそのはず、途中は細い一般道で、何カ所かに料金所もあり大型バスが連なったらどうにもならなかっただろうと想像できましたが、今はご覧の通りすいすい、快適なドライブができました。三橋時代、とりあえず今年はしまなみ一人勝ちだったそうですが、新しいもの見たさの観光客はもう限度。  三橋で三兆あまりの投資、島嶼部を結ぶという意味で生活道路としての役割は担いそうですが、路線バスは一台平均数名しか乗車せずすでに、何路線かは廃止、縮小に追い込まれているとか。混んでもすいてもいいことばかりとはいかないようで。島の患者さんにとっては広島でも愛媛でも医療機関を選べるわけで、もともと通院が難しいため入院施設の多かった市部の医療施設の対応も随分変わったことでしょう。              しまなみ海道関連

4 NOV 99 素敵な休日

                   「こおりせんせいへせんせのおにわのかきぱたべられますか」10月24日、秋晴れの日曜日11時01分、i-modeにこんなメッセージが飛び込んできました。時々メールで育児相談に応じているIさんちのまゆちゃんからでした。とりあえず慣れぬ手つきで返信、その事はふっと忘れていました。  一週間後のさわやかな日曜日、休日は目覚めが良く、新聞片手にコーヒーをとゆったり構えていたのですが、思わずカップを落としそうにになりました。→     読者投書欄にhttp:4歳のEメール//www.という活字が!その瞬間まいったと思いました。案の定、まゆちゃんのお母さんの名前が最後に()でくくってあります。以下、ご本人の承諾を得て転載させていただきます。(左下へ)                
 厳しい残暑から急激に気温が低下し、本格的な秋への移行。この変化に耐えられず、三人の子供たちは順番に風邪をひいてしまった。先日も、幼稚園から帰宅した長女が発熱、小児科を受診した。待合室は、いつもになく混雑している。ベンチに腰掛け診察の番を待つ間、窓ガラス越しに庭を眺めていた娘が「ママ、あれカキ?」「そうだね」。赤く熟した柿の実が、いくつも下がっている。とても、高い木である。→                      「ママ、あのカキ、食べられる?」「う〜ん。どうかなあ?先生に聞いてみたら?」とっさに娘は恥ずかしそうに首を振った。この混雑、たしかに、無駄話のできる状況ではない。「ママ、メールで聞いてみるのはどお?」。四歳の娘の口から、当たり前のようにでてきたセリフにドキッとした。(左下へ)                  
この小児科の先生はホームページを開き、育児に関する質問、 相談を受け付けてくださっている。診察室で聞きそびれたことや、小さな疑問、質問も気軽に 相談できるとあって、子供を三人抱える私は、度々お世話になっている。娘もそれを知っているのだ。日曜日、初めて娘自身にメールを作成させてみた。もちろんすべてひらがな。パソコンのキーボードで字を拾っていくこと数十分。「できたあ」『せんせのおにわのかきはたべられますか』まだろくろく字も書けない娘の苦心の作である。                  日曜日の午後、先生からのお返事のメールが飛び込んできた。「はい、もうすぐあまくなります」「あまくなるって」。お返事をいただいた娘は、うれしさのあまり、カキのようにほんのりほおを赤く染めて笑った。

深更、この柿が屋根に落ちる音にびっくりするようになると秋も深まる。もともと渋柿だが、この時期、プリンのように軟らかくなったら、スプーンですくってたべる。とろけるように甘い。

 

24 SEPT 99  休日のような一日

 この日は台風18号による未明からの暴風雨で始まりました。また多くの犠牲者がでたのですが、天気予報は特に台風を含め低気圧の動きにいつもついていけません。気象学者ではありませんから偉そうなことをいうつもりは毛頭ないのですが、ゴルフ好きは天気に敏感です。それはともかく、先日のハリケーン「フロイド」の時、クリントン大統領自らテレビで非常事態宣言を出し避難を呼びかけていた姿を思い浮かべました。日本はあとから建設大臣くらいが作業着を着てのこのこ出かけるのがいつものパターン、復旧工事をどこにやらそう位のことしか頭にないのでしょう。予報よりはるかに早く台風は通過し、午後からやってきた患者さんが届けてくれたのがこのケーキです。
 そう、今日はとてもひどいアトピーだったKくんのお誕生日、いまではすっかり良くなりました。私がなおしたわけではありません。廃家になった農家を借りて住み、とにかく清潔を第一に、昔の家屋ですから風通しもよくクーラーは使わないそうです。それなりに無農薬野菜を作られたり、食事も制限しながら時々チャレンジしながら、たびたび近くのごく普通の温泉に行って遊んできたり、犬や猫も何匹か飼ってK君とも遊んでいるそうです。専門病院へ行ったりしてよく勉強されてはいるのですが決して必死になって、という感じではなく、こんなに薬飲まなくてもいいですよね、、、うん、そうだね、、なんていいながら、私もごくありきたりの抗アレルギー剤一種類だけ処方してきました。お母さんのノウハウを習って、一儲けしようかななんて冗談を言ったりして。それにしても嬉しい贈り物でした。

 夜は、恒例の犬のお散歩、すっかり晴れて名月をとはいきませんでしたが、雲間からちらっと顔を出してくれ、朝の嵐はどこへやら、虫の鳴き声と、水量を増した小川の流れがかえって静けさを際だたせていました。

 もう一つ、6年続いた「料理の鉄人」の最終回の日でもありました。いつの間にかビデオは40本近くになってしまいました。

 という何か嬉しくもあり、悲しくもあり、寂しくもあった休日だったような一日でした。

12 SEPT 99  第32回愛媛県小児科医会生涯教育集会(松山)

        本当に蒸し暑い一日、早朝から汽車に揺られ午前中は理事会午後はお勉強。

           「生殖医療の現状」「コレステロールは善玉、悪玉」という講演を聴いてきました。

           前者は不妊治療をきっかけに身近になった、精子や卵子を人工的に操作する医療技術のこと

           染色体異常や遺伝疾患の生前診断という社会的な問題をはらんだ技術、小児癌治療で生殖能力を失う

           可能性のある少年の精子保存の話、クローン利用による臓器移植のための臓器作りなどなど。

           後者は子供にとってのコレステロールの役割を考え直そうという、、むむ、昨日勉強したことが、明日には

           大嘘だったみたいなことの多い世界です。

           それにしても、行きも帰りも汽車は満席、これはどうも国宝弘法大師空海展、あるいは前日行われた

           国際HAIKU大会(文部大臣はともかく、HIROKO GRACEが来ていた!)のせいらしい、

           いずれにせよこんな日はゴルフなんてやめて、緑陰とはいきませんがお勉強が一番だと本当に思ったのです。                                    

28 AUG 99  むかいだ小児科(病児保育施設キッズハウス)見学訪問

 「病児保育施設」には以前から興味を持っていました。病気の時ぐらい母親がゆっくり子供の看病ができる就業体制を作るのが理想だと思っているのですが、HPをとおしてお母さん方の実情を知るにつけそうも言ってられないかと心境が変わり、松前町で実施されている向田先生を訪ねました。写真一枚では何も伝わりませんので、先生のHPからじっくり見てください。   私も来春開設にむけて動き出しました。ちょっとした病気だけど保育園は休まないとだめ、でも仕事も休めない。そんな時のデイケアシステムです。応援してください。
 向田小児科病児保育施設「キッズハウス」訪問は土曜の診療を終えてから、その夜は松山に泊まり、次の日、子規記念博物館で開催されていた司馬遼太郎展の最終日を見てきました。

 子規記念博物館は、たぶん昔の道後動物園だったところにあり、まわりに緑も多く、とてもいい雰囲気でした。のんびり子規や漱石、波郷の常設展を見て、最後に司馬遼太郎展へとまわったのですが、「坂の上の雲」はもとより「花神」など愛媛とは深いつながりのある作家であり、「竜馬がゆく」「夏草の賦」「馬上少年過ぐ」など四国を舞台とした作品も多くいっそのこと常設展示を期待する方も多いようです。

 それにしても、まだまだ言いたいこと、書きたいことたくさんあったはずですから、、、、、。

7 AUG 99 子供への暴力防止ネットワーク宇和島準備会

 上記第3回準備会が神奈川県立こども医療センター精神科清家洋二先生をお迎えして開催されました。場所は宇和島市を一望にする国民年金保養センターうわじま2F会議室。女性を中心に、約70名が参加し、この問題への関心の深さをあらためて感じました。10年前、平凡社の月刊誌に幼児虐待をテーマにへたな小説を連載しましたが、そのころは資料も少なく苦労しましたが、会場で渡された関連文献は豊富で、このところのこの種の事件の増加に歩調を合わせているようです。先日もクローズアップ現代で取り上げていました(もう何回目かになると思います)。私は、この問題に精通した警察官の仕事だと思っています。児童相談所も、保健所も、病院関係者も対応困難で、結局最悪の事態になるまで先送りしてしまう、その繰り返しです。今回、警察関係の方に案内があったのかどうか、土曜の午後で途中で抜けなくてはならず残念でした。

1999-7/22~24  和霊大祭(牛鬼まつり)

 7月23,24日は当地の夏祭り、何故か梅雨明けと重なります。写真の怪獣は「牛鬼」と呼ばれ、今では甲子園でも有名になりました。近隣の町や村、町内会や愛護会のちび牛鬼まで数十体が当クリニックの隣どおり「牛鬼ストリート」に集結します。和霊大祭は本来漁業の振興を祈願し、大漁旗を掲げた多くの船が集まり、御輿を船に乗せ、さらに川の中を担いで走る「走り込み」がメイン行事なのですが、どうも近年は怪獣ブームもあってか牛鬼が人気のようです。竹に穴をあけて作ったホラ貝のような音のする楽器がBGMを担当、子どもの頃うまく音が出なくて悲しい思いをした記憶があります。

1999-7-14    CIRCUS

 かみさん孝行というわけではなく、純粋にこのグループのハーモニーはずっと好きだったので、松山でデイナーショーがあると聞いて、是非聴きにいきたかったのです。都合のいいことに水曜日、とても懐かしく、かつやっぱり生でも うまいんだと妙にハイな気分で帰ってきました。 ただ、残念なことに、男性ボーカルの一人がなんと「過呼吸症候群」と診断されキャンセルしたため、4声の和音を堪能するにはいたらなかったのです。それにしても過呼吸症候群は若い女性の病気だと思っていましたが、それとも歌手の職業病でしょうか。当日東京は大雨だったそうで、意外と飛行機嫌いなんじゃないかと勘ぐってみたのですが、、、、

過呼吸症候群(過喚気症候群)

1999-7/8-10  夏休み〔根釧原野〕

 三日間夏休みをいただいて釧路、根室をさまよってきました。根室は昭和53年12月から5月まで、市立病院部長として勤務した思い出の地なのです。現地で開業している先輩と当時の看護婦さんが4人集まってくれて、ほっけやしまエビや、めんめ、めふん、タラバ、氷頭、などといった北の味を囲んで思いで話に花が咲きました。当時三歳とゼロ歳の娘は零下20度にもなるこの地の冬を経験したのですが、かぜをひかせた記憶はありません。

 釧路湿原では(左写真)もちろん野生の蝦夷鹿、野ウサギ、キタキツネ、放牧された馬、牛などに会えて、動物好きの私はとっても感動し、満足したのでした。釧路の飲屋街ではゴメ(カモメ)のうらがなしい鳴き声を聞きながら、「舟歌」を口ずさみつつ呑んでいたのです。

1999-7-4    第50回南予医学会開催(宇和島サブライムホール)

 大雨が続いたあとの梅雨の中休み、年一回南予地区持ち回りで行われる学会が開催されました。一般演題が20題、50回記念として、南予地区4基幹病院から、それぞれの現状報告講演、最後に、愛媛大学細菌学教室浅野喜博教授による「自然免疫系と獲得免疫系の接点」と題された特別講演を聴講しました。

 数年前までは、他科の演題はあまり興味なく、居眠りしていたのですが、中年のなかいりをして、冠動脈疾患の、、、大腸癌の、、胆嚢摘出術の、、、と言った報告も気になるようになり、昨年の骨折以来整形外科にも興味がでてきました。 ただ、やっと晴れ間の見えた休日は、窮日でもあったのです。

1999-6-10   お気に入りの店(宇和島)     

 とはいっても、なにもなくても夜は一応休日、パソコンを指導してくれた某氏とかみさんと食事に出ました。ここは、ふぐ料理屋と称していますが、この日はそら豆、アスパラなど野菜の中華風炒め物(右)や、スパゲッテイが出て、ほっとくとお汁粉や、アールグレイや、茶そばやが出てくる知る人ぞしる危険な店、大将もパソコンにはまっていて近日ホームページを作るとほざいていました。ちなみにワグナーやバッハをかけだす悪い癖があります。

1999-6-5/6  宇和島医師会移動役員会(大分)

        年に1回、一泊で観光、ゴルフへ出かける役員会、今年は観光は湯布院、ゴルフは久住高原へ出かけました。

           バスを仕立てて宇和島港からフェリーに乗り込み別府へ、船内で一応形だけの会議、あとはお弁当を食って、

           何故か大分のホテルに泊まり翌朝ゴルフ組は一路、久住へ、標高800Mの高原コースで遊び、雨のせいか、

           キャデイさんがいなかったせいか大幅に遅れ、予定の船に乗り遅れ臼杵の料理屋さんで夕食、といっても

           帰りの弁当を食っただけ(この料理屋さんに注文していた、ちなみにここの娘さんはGLOBEのKEIKOさんだとか)

           あとは次の便で標高800mはボールの飛距離にどう影響するかなど科学的議論をしながら

           呑んだくれて帰ってきました。それ以上は、ここでは触れません。

                           豊後水道に沈む夕日、にもかかわらず翌日は雨でした。

1999-5-15/16 第10回日本小児科医会生涯教育セミナー(京都)

         日本小児科学会が大学等を中心としたアカデミックな集会なら、この会はより現場に近い臨床にそくした会で、

           私たちのような立場の医師にとって身近な話題を取り上げてくれます。

           今年は、葵祭を絡めての京都、スタッフ研修も兼ね参加してきました。 

京都3大祭の一つ、単にまつりというとこの葵祭を指すそうです。今から1400年前風水が激しく五穀が実らず、天候回復を祈願して始まったものだそうです。毎年5月15日に行われ、もしその日が雨であれば一日順延、それでだめなら中止だそうで、今年は28度にもなり快晴、日頃の行いのせいか予定どうり見ることができラッキー!上の写真は牛車,俗に御所車と呼ばれ平安朝の高級車。 夜の鴨川、研修を終えて、川岸に張り出された川床(まあ物干し場みたいなものですが)での夕食、昔のビアガーデンですが、川風が涼しく、自然の冷房に包まれ、スタッフもリラックス、日頃飲まない婦長さんも大洲出身(もっとも京都にきて50年らしい)という正面のお姉さんと話が弾んでいました。(わざと暗い写真を出しています、念のため) 今年のテーマは「子供の病気 過去、現在、未来」    15日にはポスターセッション、小児救急医療の現況、子供の事故統計、予防接種の現況、中学生の風疹ワクチン接種率低下問題、幼児期からの生活習慣病予防、夜尿症の検討、水痘に対するアシクロビルの効果、おたふくかぜに伴う難聴などが報告されていました。 16日は、教育講演。うえは「感染症新法」について語る小池麒一郎先生。小池先生は、私の大学病院時代の直属の上司、この先生の外来診療に毎週助手としてつき、病棟回診でしごかれました。そもそも小児科を選んだのは先生の講義に惹かれてであって、私が今あるのもこの先生のおかげ(ちょっとおおげさですが)。今は、日本医師会の常任理事として活躍されています。

   ということで2泊3日の旅行を無事終えました。教育講演では、ウイルス疾患のトピックス、エボラ出血熱、ラッサ熱、

    新型インフルエンザ、RSウイルスやロタウイルスワクチンのことなど聴いてきました。ボーダーレス化はウイルスの世界

    にも無縁ではなく島国日本も安穏とはしてられないようです。残念だったのは時間の関係で聴けなかった公開シンポジウム

    「私の隠れ家」で紹介した服部祥子先生が出席されていたのですが。